銀座人インタビュー<第1弾>
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第1弾〉銀座の商人(あきんど)今昔そして未来
サンモトヤマ 茂登山 長市郎会長

日本におけるインポートセレクトショップの先がけ、サンモトヤマの茂登山会長にお時間をいただき、戦後から現在そして今後の「銀座」についてお話いただきました。 とても興味深いお話を伺うことができました。ぜひご一読ください。

銀座商人の役割

茂登山:新ちゃん、創業80周年おめでとうございます。

渡辺:おかげさまでありがとうございます。

茂登山:私がお祝いの言葉を述べさせてもらうというのは、おじいさんの實さんと親父さんの明治さんと三代目の新ちゃんとこうやってずっと繋がって、今までお付き合いをさせていただいてきたからでしょう。三代にわたっては本当に珍しいと思う。

渡辺:私もそう思います。本当にありがとうございます。

茂登山:実は、私も新ちゃんと同じ三代目。私の祖父は明治37年に日本橋でサンメリヤスというニットの卸問屋を開業し、父が店を継いだけど大東亜戦争で配給会社になってしまった。戦後は有楽町駅前で雑貨の小売店を始め、私は復員後にその店を足がかりに、中国応召の際に旧租界の天津で見た外国ブランドの美しさに魅かれて、外国の文化を輸入しようとお店を始めたわけ。

渡辺:サンメリヤスとして、三代目なんですね。

茂登山:お店も現在は並木通りですが、昭和34年に初めて銀座に進出した場所がみゆき通りで、渡辺さんの三軒先だったんですから。本当に赤の他人とは思えない。おじいさんにもずいぶんご厄介になったし、親父さんとも色々とあったしね。

渡辺:「三」という数字に縁があるんですね。

茂登山:そう。並木通りへの本店移転も昭和39年3月9日。みゆき通りと並木通りが交差する角から三軒目。

渡辺:すごいですね。ところで、茂登山会長がお店を始められた当時の有楽町・銀座はどんな様子でしたか?

茂登山:有楽町駅前は、朝日・毎日・読売の三大新聞社があって日劇があり、闇市場があり、裏側にはGHQがあってアメリカ村、いろいろな人たちが行き交っていました。GHQにはマッカーサーがいて、あの頃は銀座よりも有楽町近辺が政治経済の中心だった。彼らは銀座を爆撃しても、帝国ホテルから今のお堀端にあるビルは爆撃しなかった。

渡辺:その時、銀座は焼け野原ですよね。有楽町の方がビルが残っていたんですか。

茂登山:もちろん。しかもそれらは全部進駐軍に占領されていたからね。有楽町駅前はゴタゴタしていた。私はクラスのある人たちにクラスのあるものを売るには、車が止まるロケーションが必要だと思って昭和32年に本店を日比谷の三信ビルへ移した。
 その後、先ほど言った銀座みゆき通りに支店を出し、昭和39年のオリンピックの年に本店を並木通りに移転したんです。

渡辺:そうだったんですか。
 会長が銀座に移転された頃は、銀座はどんな存在でしたか。

茂登山:私が銀座へ来た時は、ご承知のとおり日本の銀座と言っていた時代。銀座というのは明治の初め頃に大火があって、その後国が日本の代表的な商店街にしようということで煉瓦通り、煉瓦の家をつくった。
 明治のはじめから約140年以上、一貫して日本の銀座ということで、銀座が日本の文化の中心、発信地だったんです。

渡辺:銀座の街自体が最先端だったんですね。

茂登山:そう。なぜかと言うと、渡辺さんのようなテーラーだとか、着物、日本の靴屋の元祖、和小物、あらゆるものの老舗が集まっていたから。今〝銀座百点〟というタウン誌がありますね、あの中にはいろいろな店が入っていますが、大半は銀座で少なくとも二代、三代という店ばかり。
 渡辺さんが店を出した1930年(昭和5年)は、まさにモボ・モガの時代で、文化、映画、小説、ファッション、食まで、あらゆるニュースは全て銀座から出ていたようなものだったんです。

渡辺:140年の歴史の中でそういう役目を担ってきたんですね。

茂登山:そう。自然にそういうものが作られてきた。さらに汽車は新橋から出たんです。新橋と有楽町と東京駅、この間にまたがっているのが銀座なんですから。それともうひとつ、銀座というのは、江戸300年の城下町ですよね。江戸城があって、その一番近い街はどこだというと銀座になる。古今東西、城下町というのは一番歴史と伝統のある街なんですよ。

渡辺:そこまでさかのぼっても、やはり銀座という街は歴史があるんですね。

茂登山:もうなるべくしてなった、日本一の商店街。そのロケーションがそうさせたんです。

渡辺:それはもう街がそうであったのですから、プライドを持ってそこで商売される方々も日本一であったのでしょうか。

茂登山:そう。やっぱりプライドを持つし、しかも土地も高い、あらゆるものが全て高い。そこで生き残るということは、大変なことです。しかし、それはまたそこで仕事をしている人たちのプライドでもあったわけです。

渡辺:その江戸の300年間でつくられた江戸の商売ですが、関東の商売より関西のほうが歴史的には厚みがありますよね。

茂登山:そうそう。

渡辺:関東のそれは、関西の商売とちょっと違うように感じるのですが。

茂登山:それは違うと思います。なぜかというと江戸っ子というのは、江戸300年平和の時代が続いた。火事とケンカは江戸の花と言ったって、本当に大きな火事は江戸三大大火の3つだけで戦乱はなかった。もともとは、沼地に葦が生えていたところなんだ。
 一方、京都、大阪、いわゆる浪速の商人にとっては、とにかく応仁の乱のあの頃から戦乱が絶えなかったわけ。常に取ったり取られたり焼き討ちに遭ったり、常に戦災にあっていた。

渡辺:落ち着かないなかで商売、商人、街ができていったんですね。

茂登山:落ち着かない。だから、めざといし、先を見る目があるし、江戸っ子みたいにのんびりと“明日は明日の風が吹く”と、のんびりした感じではない。

渡辺:江戸っ子は、まあ今日はこれで全部使っちゃっても明日また稼げばそれで食えるんだという、大らかさみたいなものがある。

サンモトヤマ 茂登山 長市郎会長
サンモトヤマ
茂登山 長市郎会長
1955年株式会社サンモトヤマを創業し外国一流ブランドを紹介、普及させる。
1991年会長に就任、現在に至る。
2006年イタリア政府より功労勲章を授与される

茂登山:そう。同じ商人として決して自慢にはならないんだけどね。東京人は、真剣味が足りない。その代わりに“情”がある。

渡辺:なるほど。それで江戸っ子は情があるというんですね。

茂登山:そう。感情というのは人間の直感力(ひらめき)と人情。勘定は、そろばん。この2つがないと生活できない。江戸の商人は親しければ、「いや、こいつとはたいして儲からないけれども、商売するよ」と情で商売をする。ところが関西は、親しくても儲からなければ商売しないという人が多い。はっきりしている。

渡辺:だから、江戸っ子の商人というのは、比較的のんびりしてこられたんですね。

茂登山:江戸っ子は、宵越しの金は持たないのじゃなくて、持てなかったんだ。またそんなに稼がなくても良かった。何とかなってきたんです。

渡辺:それでも生きていけたわけですね。

サンモトヤマ
サンモトヤマ
〒104-0061
東京都中央区銀座6-6-7 並木通り
Tel 03-3573-0003
営業時間
月〜土曜 11:00〜19:00
日・祝日 11:00〜18:00

日本の銀座から世界の銀座へ

渡辺:今、地方の◯◯銀座がだんだんなくなってしまっているのは、銀座の魅力が落ちたのではなくて、日本の銀座が世界の銀座に変化してきたからなんでしょうか。

茂登山:今の銀座は、もうマネできないくらい、雲の上に行っているわけ。見れば分かるでしょう。いまさら地方へ行って◯◯銀座って「何、これが銀座?」と今の銀座を見たら確かにそう思いますよ。今から30年、50年前の銀座だったら、地方でも◯◯銀座という名前に準ずるようないいお店さえ集めれば、いい通りができた。そこでいいお買い物をしてもらえば銀座へ行かなくてもいいですよと。東京で日本の文化を花咲かすのは銀座だった。だから、地方に文化の花咲かせる街の代表は、銀座という名前を使ってたんだ。全国に一時500余りの◯◯銀座があった。それがこれ以上、銀座をマネすることはできないと昔の名前に戻すようになってきているようです。

渡辺:原点に帰ろうとしているように感じます。銀座を目指すのではなくて自分たちの元の姿にかえろうとしていますね。
 今から30〜40年前の銀座は、確かに〝日本の銀座〟だった。それが今はまさに〝世界の銀座〟に変化しつつあるから、漢字の銀座が横文字の「GINZA」になったんですね。

茂登山:そう、それが正しいのね。銀座が横文字の「GINZA」を使うようになったのは、確か昭和39年のオリンピックの頃だった。ここが非常に重要なの。日本の文化を代表する、老舗の集まりが銀座なんですよ。だから、みんな懸命に銀座の商人としてのプライドを持っていた。

渡辺:銀座で仕事をしているんだというプライド、商人としての意気込みですね。

茂登山:専門店の一番重要なことは、店に親父がいるということ。オーナーなんですよ。渡辺さんのところなんかは、最後までおじいさんがいつも店にいたし、今も親父の明治さんがいるし新ちゃんもいる。これが本当にいわゆる昔の老舗の姿だった。いつも親父が責任を持ってその店にいる、それで接客もする。ものを売るだけじゃない。
 お客様も銀座へ来たって毎回毎回買い物に来るわけがないんだから、呑みに来る人もいれば、映画を観に来る人もいる。友だちが帝国ホテルにいるから会いに来る人もいる、いろんな人がいるわけ。毎日いつも買い物するわけではない、銀座をぶらっとしていて何となく寄りたい、あの店にちょっと寄ろうといってお茶1杯飲んで面白い話をして、「親父、何か面白いものはないか」「そのうちにこんなものが入ります」というような、売るとか買うとかじゃない、そこに何かニュースがないか、面白い話がないか、何か新しいレストランができていないかと。その情報をいろいろと親父をからかいながら、社員と話しながら常にお客様は楽しんでいた。それが銀ブラなの。銀ブラというのは、そこから始まった。

渡辺:ただ、ブラブラお店を歩いているのが銀ブラじゃない。店の親父さんの顔を見に行っていたんですね。

茂登山:そう。世間話やニュースを聞いて楽しんでいたんです。だから、今でも六本木ブラとか青山ブラとか池袋ブラとか、そんなのないでしょう。これからも原宿ブラなんていう言葉は、永久にできないと思いますよ。

渡辺:逆に言うと、銀座にその店の親父さんがいなくなったら、銀ブラもなくなってしまうわけですね。

茂登山:多分、そう。外国から来ているお店は、とにかく効率的に外国的な接客をやっているわけ。昔話をするといったようなお客様との接点は何もない。とにかく目の前のもの、自分の売っているものが一番いいんだという売り方。売ってとにかく「ありがとうございました」と丁寧にカードを受け取ってサインしてもらっておしまい。昔の銀ブラの楽しさとか、お店とお客様の関係、お客様と社員と親父との人間関係そういうものが、少しずつなくなりつつある。ここのところが大切なんです。
 「商人」、これは〝しょうにん〟と読むか〝あきんど〟と読むか。私は〝あきんど〟という響きが好きだから商人と言いますが、そもそも商人の語源は、お客様を飽きさせない。自分も飽きない。自分もこの仕事が好きなんだ。だから、やっているんだと。買うほうも楽しいけれど、売るほうも楽しいという商人の売る楽しさ。それが飽きさせない〝あきんど〟の語源なの。
 特に壹番館は、その精神をしっかりと持っているから、おじいさんの時代からいかにも職人業、まさに職人上りのテーラー。職人の魂を持った明治さんにしても新ちゃんにしても完全に職人。背広を着てピシっとしているけれども、やはり立派な銀座の商人です。
 私なんかもこうやって今、満88歳になるけれども、やっぱり私が売場に、とにかく一番近いところにいて、お客様が見えた時にお相手をする。残念ながら、私のお客様の90パーセントくらいは亡くなっているけどね。それでもお嬢さんやお子さんやいろんな方にご挨拶する。私はそれだけでもいいと思っている。お客様のご機嫌を見て昔の話をする。だって、そういう人たちも昔話が楽しいんですね。

渡辺:そういう方たちは、いまだに銀ブラを楽しんでいらっしゃるということになりますね。

茂登山:そうです。そういうところに親父がいれば、「昔は楽しかったな」とか「昔が懐かしいな」とか、もうその話だけで銀座へ来るんです。そして買ってもくれるんですよ。

渡辺:無理をして売る必要はない、自然と数字がついてくるわけですね。

茂登山:売ろうなんて考えることはいらない。お客様が懐かしがり、楽しんで来てくれるんです。だから、判官贔屓ってよく言うじゃない。近くに大きな店ができたって、私は情のあるここで買うんだと。昔のお客様はそうでした。私は買えないけれども、この人を紹介するからこの人に買ってもらってよって。

渡辺:お客様がお客様を繋いでくださる。だから会長はよく、お得意様を多く持ってる店は簡単につぶれないとおっしゃっている。

茂登山:そうなんです。お得意様がいるお店というのは絶対つぶれない。お得意様の数が100人のほうが、お客様を1万人持っているより強いんですよ。

渡辺:よく会長は、お得意様の意味を言われますよね。

茂登山:お客様に普段そうやってお会いして得意になって遊んでいただく。お客様は「私が来ないと、この店はつぶれちゃうんだ」って冗談を言えるぐらい得意になれる。昔はそういう人が壹番館ならいっぱい来ていたと思いますよ。私のところもそういう人が来ていた。贔屓にしてくれた。私がこの店で買ってやっているんだと。昔の商人は、そのぐらいお客様を大切にしていた。

渡辺:「情」が通ってますね。お客様を大切にすることで「情」を通わせていたんですね。

茂登山:そう。私は元々日本橋にいて商人の家の長男として生まれた。魂はもう根っからの商人なの。だから、ビジネスマンだとか何とかと言われるのは好きじゃない。親父でいいんだ、専門店の親父、舶来屋の親父。それが一番私に合うんだし、自分の気持ちもごく自然なんだ。

渡辺:商人としてしっくりくるんですね。

茂登山:そう。そういう感じの商人が銀座に少なくなっちゃった。それとオーナー社長の店がだんだん少なくなっちゃったね。企業が大きくなるか、うんと小さいか、そうでないと残れない。中途半端だと残れない。専門店も、大きくしたら潰れちゃう。小さくしたらまた消えちゃう。今、非常に難しい時代。

渡辺:そのバランス感覚や、いかにお客様を大切にしお客様が親父の顔を見にきてくれるかが、銀座で残っていくために必要ですか?

茂登山:それには銀ブラをするんだと思ってもらえるかだと思う。あそこへ行ってお茶を飲んで、あそこで食事して歌舞伎を観て帰る。昔のお客様にはひとつの獣道みたいなものがあったんです。
 例えば、お客様は家族で地方から来ると親父は壹番館で洋服をつくる、奥様は隣のきしやで着物を買う。そして私のところへ来てネクタイ、靴下、ハンドバッグ、靴、そういう雑貨を買う。そのようなお客様がずいぶんいらっしゃいった。あの頃が本当に懐かしいですね。

渡辺:お客様それぞれの銀座での楽しみ方というのがあったんですね。

茂登山:そう、それぞれにこだわりがある。だから、うちのお客様に洋服屋はどこがいいかと聞かれたら、壹番館以外は絶対に紹介しなかった。実際にいいんだから。壹番館の服のポケットの深さなんかというのは、アルマーニにもヴェルサーチにもディオールにもどこにもない。手をポケットに入れた時の感触、パンツのチャックの下がり具合、これなんかもよく考えたと思う。ほかのチャックより長くてあのほうが絶対使いやすい。それは使った人でないとわからない。私は外国のものばかり着ているから、たまに渡辺さんの洋服を着る何とも言えないね。
 それは職人が自分でつくってお客様の要望を聞いて聞いて、それに応えて自分が考え出した壹番館のスタイルなんだ。それが職人芸なんだ。そしてそれがブランドなんです。残念ながら、そういう店が今少なくなってきている。私も昔は、エルメスやグッチなどを日本へ紹介してきたけど、今は全部大政奉還しちまった。今でもたったひとつあるのは商人根性。これだけは残しておかないと、お客様全部なくしちゃうことになるんです。それが私にはまだあるから、今だに頑張っていられるのかもしれない。

渡辺:銀座は、日本の近代文化の発祥の地であり、商人としては、本当に一度はお店を出したい場所、憧れの場所と考えられますね。

茂登山:そうですね。実際に銀座の持っている文化的なものが、銀座をここまで大きく残してきた。一時は追われる銀座なんて言って、原宿に追われる銀座だとか、銀座はもうこれで地に落ちたとか、私がこうやって88歳まで仕事をしている間にも、2、3回ありましたね。でも、いつも追われながら必ず銀座は立ち上がり生き残ってきている。それというのは、みんながやっぱり銀座という街を真剣に意識しているから。
 ただ、世の中が変わる時には銀座も変化する。例えば今、ファストファッションの店が急激に増えている。ユニクロ、アバクロ、それからフォーエバー21、H&M、ZARA、そういうのがどんどん出店している。中には、大人の銀座が若者の銀座になっちゃうんじゃないかって、心配している人もずいぶんいる。しかし、私はそうじゃないと思う。それらの店はそれぞれの国の一流の店なんです。
 ユニクロだってそう、日本でユニクロをまねできる会社はない。安いけれども、いいものをつくっている。高級ブランド品なら財布1つの値段で、上から下まで全部自分のテイストで揃えてコーディネートして勉強できる。
 そして表に出て「あなた、かわいいわね」と誉められると、良い悪いは別に自信がついてくる。自分自身のテイストをつくる事も磨く事もできる。

渡辺:それほど高くないお金でファッションの勉強ができるわけですね。

茂登山:皆、最初は、どんな絵描きでも美術館へ行って有名な画家の模写をするものです。最初はマネしたっていい。ブランドものを買うのもいいけれど、もう一足とびに、ブランドものを買う時代も終わったのかもしれない。

渡辺:一点豪華主義でいきなりブランドを買う時代じゃないということですね。

茂登山:そうですね。自分のテイストをだんだん作っていく。私はこれが似合う、これは似合わない。だんだん自分に何が似合うか、何が自分で着こなせるか、自分の体質、体格に何が合うか、わかってくるわけ。それがセンスというもの。
 今は安くていいものを買う。そのうちにその人たちが成長して収入が増えれば、いいものはわかるんだから、それを買うようになります。

渡辺:ファストファッションのお店が出て来て、銀座に人が来るということが必要なことなんですね。

茂登山:まだ反対している人たちもいる。でも、それぐらい懐が大きくなければ、これからの銀座はダメなんだ。新ちゃん、結局はお客様が来ないと、ものが売れないんだからね。

渡辺:そうですね。街自体が盛り上がることが基本ですね。

茂登山:今はお客様を選り好みする時代じゃない。お客様が店を選ぶ時代ですよ。お客様を選ぶというのは、商売人の僭越。お客様に「あなた来なくてもいい。」とか「あなたには売らなくてもいいんだ。買ってもらわなくていい。」なんて、よくそういうことを言う人がいるけど、それは決していい商人じゃない。それは、所謂うぬぼれの商人です。
 今、世の中の流れが大きく変わっている。ファッションというのは“流行”と書く。流れ行く。時代が流れ行く川のようなものです。流行というのは、毎日流れて変わっているんです。

渡辺:私たちもその流れに乗っていかなきゃいけない。止まっていてはいけないんですね。

茂登山:それに乗りながら、少しずつ幅を広げて海に入るわけ。それを銀座というところはずっとやってきたんです。

渡辺:何度も繰り返して文化を確立し、大きくなってきたんですね。

茂登山:今まで明治の大火、関東大震災。それから、第二次世界大戦、そしてまた、大きなバブル。100年に一度か何か知らないけれども、そんなものが今また来ている。こんな時には世の中が大きく変わっている。銀座が火災でやられた時には、3分の1ぐらいが変わってしまった。裏では、いろんな悲劇と犠牲があったわけ。でもその都度、銀座は大きくなってきた。
 この銀座が一番大きく変わったのは、何と言ってもオリンピックの年の昭和39年(1964年)だと思います。まさに渡辺さんはその前の年に、お店を改装したんでしたね。

渡辺:そうですね。前の年にビルにしました。

茂登山:親父やおじいさんは、もうその変化を考えていたんだ。

渡辺:オリンピックの前と後で銀座の商売は変わったんでしょうか。

茂登山:いや、変わったよ。親父さんやおじいさんはその時すでに考えがあったからこそビルにしたんだ。オリンピックで世の中が変わるぞと。今までの形じゃダメだぞと。日本の銀座が世界の銀座になるんだぞと。それこそ、商人、職人の勘だと思いますよ。

渡辺:だからこそ、うちの父もヨーロッパに勉強にいったんですね。

茂登山:そう。それがいわゆるファッションビジネス。私が初めてヨーロッパに行ったのが昭和34年の春。ちょうど50年前の事です。
 それまでは、どれだけお金を使っても行けなかった。パスポートをもらえなかった。しようがないから商社の名前を借りて、現地の支社にギャランティしてもらってやっと行くことができた。

SUN MOTOYAMA