明治5年創業、銀座の象徴といっても過言ではない「資生堂」。
その資生堂の福原義春名誉会長に、銀座で「商店」から「世界企業」へと発展していった、資生堂の経営スタイル。
そして、銀座で商売をすることの「楽しさ」「難しさ」などについて、お話しいただきました。
また、ご自身でコレクションをされるほど、アートに造詣の深い福原名誉会長でいらっしゃいます。
芸術に関するお話も伺えればと、当企画第三弾にもご登場いただいた東京画廊ディレクター山本豊津様にも、再度ご参加いただきました。
渡辺:平素は格別のご愛顧をいただきまして、ありがとうございます。
本日、福原名誉会長にはビジネスとは少し違う側面を持った、銀座での商売について、お話を伺いたいと思っております。商店から会社になり、そして、関東大震災や世界大戦を乗り越え、企業から世界企業になっていかれますが、最初のステップとして商店から会社に変わっていくということは、一体どういうことなのでしょう。
福原:当社は、祖父の福原有信が創業者ですが、創業当初(明治5年)は調剤薬局でその後、徐々に化粧品などハイカラなものを扱うようになっていきました。
渡辺:スタートは本当の家族経営的な、いわゆる商店でいらっしゃった。
福原:そうです。店長のおばあさんが、20人くらいいた住み込み店員の食事のメニューまで決めていたといいますから。
山本:20名いれば大店ですね。
福原:そうですね。資生堂の特徴は中卒ぐらいで住み込みにして、その間に夜学でいろいろなことを勉強させるわけです。それは本人が希望するものであれば、英語、簿記、書道、もちろん薬学など、何でもいい。
渡辺:自発的に学習することを奨励されていたということですね。
福原:ええ。だから、世間ではあれは「書生堂」じゃないかと、皮肉られたこともあったようです。
山本:私も似たような話を聞いたことがあります。大原美術館で有名な倉敷紡績も、住み込みの女性の職工さんに花嫁修業をさせて、お茶やお花を会社で習わせていた。その当時の経営者たちの一つのやり方だったのかもしれませんね。
福原:そうかもしれませんね。
今はほとんどの人が大学に行きますが、当時は大半が中学まででしたから、その後の学問は自分で働きながら学ぶといった方法を採っていたということでしょう。
のちにその人たちが中枢幹部になったり、社会に出ていくようになると、やはり一芸があるというのは強みになったようです。自信にもなりますしね。
渡辺:知識に対しての投資だったのでしょうね。
福原:その後、有信は後継者に三男の信三を指名しました。信三は千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を出てコロンビア大学薬学部に留学しているんですが、留学先のアメリカで会社経営も見聞きしているんですね。
それはなぜかと言うと当時、ニューヨーク大学に留学していた松本昇さんという方が信三と知り合った。松本さんはニューヨーク大学で経営、マーケティングを学ばれていて、帰ったら僕のところで一緒に仕事をやろうと、ニューヨークで意気投合してしまったわけです。
そこで帰国後、松本さんが勤めていた三越さんにお伺いをたてるわけですが、三越さんはとても懐が深く「よろしい」と。しかし、松本にしかるべき役職を約束してくださいということになり、そこで信三が言ったのが、「私が社長になって、松本さんを専務にします。営業は全部任せます」と。
山本:そのころの社員規模はだいたいどのぐらいでしたか。
福原:そのころはまだ合資会社で、社員はおそらく50〜60人でしょう。
ここには二つのエポックがあって、一つは信三という薬学・化学の人間が、経営学・商学の知識のある松本さんとコンビで仕事を始めるという決断をしたということ。二つ目は、松本さんはアメリカでそのころ流行っていた、ボランタリーチェインを学んでいるんですがそのビジネスモデルを日本に持って来て、資生堂のチェインストア制度を作ったということ。
それは、アメリカ流の考え方を日本の風土に合わせたもので、チェインストアに資生堂の商品を主力にし、お客様がいらしたら資生堂をリコメンドしていただくという契約です。それはおそらく資本的な制約はないので、もっぱら精神的なものだと思いますが。それがとても日本的なんです。ボランタリーチェインを日本で最初に導入したのが資生堂です。
渡辺:純粋な近代経営というよりは、もう少し家族的、商店的スタイルですね。
福原:同志的結合です。資生堂が主催する経営学、化粧品学、メーキャップの講義といったものにも自費で参加し勉強をしていただく。要するにいまどきの商売と違って、ご商売していただく方々をホテルにお泊めして手厚くするというのではなく、逆に身銭を切っていただいて、丸1週間時間を費やして猛勉強していただく。
そうすることで、その間に契約以上の同志的な結合が生まれるわけです。
渡辺:なるほど。そこはアメリカの元の形態とは違うわけですね。もっとメンタルな要素が加わって、より日本的なスタイルになっていますね。
福原:アメリカ流だったら、会費制で講習にいらして、会費に見合った見返りを十分差し上げるとか、あるいはメーカーで主催しますから、どうぞ無料でいらしてくださいといったことになりますよね。それが全然違うところなんです。
渡辺:しかし、ずいぶん思い切ってビジネススタイルを変えられたんですね。
経営のパートナーを持とうと考えること自体が、かなり革新的なことだったのではないでしょうか。
福原:そう、全国各地で独立してお店を張っている有力店に話を持ちかけるわけですから、なかなか説得ができない。しかし、一度説得してしまうと他のメーカーが困ってしまうほどの強い同志的な意識で結ばれる。
資生堂からは、お店が資生堂に向いてくださるように、お店とお客様を繋ぐいろいろなツールを考えるわけです。一つ例えれば、花椿会です。花椿のクーポンを貯めていただくと、そのクーポンに応じた記念品がもらえるというメニューをつくって、パンフレットを出す。そうするとお店が一所懸命お客様に、クーポンを貯めましょうとお勧めしてくださるでしょう。そういう手助けを会社がするわけです。
渡辺:各店舗が本当に同じ方向を向いて、お店は資生堂の商品を気に入って、資生堂の商品を積極的に推奨販売する、その代わり資生堂としてはお店がお客様を固定化できるよういろいろな手段を講じますということですね。
1931年東京生まれ。
慶應義塾大学経済学部卒業と同時に資生堂入社。米国法人社長などを経て、1987年第10代社長に就任。1997年会長。2001年名誉会長。
文部科学省参与、東京都写真美術館長、企業メセナ協議会会長(前理事長)、日仏経済人クラブ日本側議長など公職多数。銀座通連合会前会長。
主な受章は、旭日重光章、フランス共和国レジオンドヌール勲章グラン・トフィシエ章など。
趣味は写真、洋蘭栽培。版画家駒井哲郎作品のコレクションは、資生堂ギャラリー、資生堂アートハウスで「福原コレクション」として作品展を開催。4月より全国の公立美術館6館を巡回する。
山本:いまのお話を伺っていると薬学の信三さん、経営の松本さん。技術と経営の二本柱があったことがポイントといえそうですね。
例えば、トヨタ自動車も製造と販売を分け、販売側に神様と呼ばれる人がいた。ホンダもそうです。それが日本的なスタイルなんでしょうか。見渡してみると、柱となる人物を分けているところがだいたい成功しているように見えますね。
福原:そういうことです。おっしゃるとおりですね。
松本さんは、商売上の戦略だけではなくて、実際に自分で交渉されたんです。これは大変なもので、全国を回って現地の販売店や問屋さんなんかと交渉するんです。
渡辺:ご自分でですか。
福原:そう。ときには一緒に温泉に行って、お盆を浮かべて温泉のなかで酒を呑む。そういうことまでして、販売網を築いたんですよ。たしかに山本さんのおっしゃる通りで、じゃあ松本さんに商品を計画しろといっても、それは無理だったかもしれない。
山本:そうなんです。父に教わったことは、仕入れ方と売り方を分けろということなんです。仕入れ方は目が利く人、売り方は目が利かない人。目が利く人が売ると自分の好きなものしか売らない。仕入れ方を間違えると、悪いものを仕入れて売るから店が続かない。
仕入れ方と売り方は、目の利く人と目の利かない人とを分けた方が商売はうまくいくと、古美術商の世界ではそういわれているんです。
渡辺:いまのお話を聞いていると、このような形態が日本の商いのベーススタイルになっているのかなと思いますね。
銀座7丁目並木通りの本社。2011年3月をもって約40年の歴史に幕を下ろした。
アールデコ調の外観が美しい旧社屋。
渡辺:名誉会長は何年に資生堂に入社されたのですか。
福原:僕は昭和28年です。
渡辺:会社に入られたときに、大卒の方は何人ぐらいおられたんですか。
福原:社員には、いないです。僕たちが初めての大卒です。あとはみんな中卒、高卒でした。
渡辺:社内のムードというのは、大卒の方々が入社される前と後で、変わってくるのでしょうか。
福原:変わっていきますね。
僕たちの業種は言ってみれば不急不要の産業。銀行から見て甲乙丙の「丙」業種で、経営が急迫しても銀行融資が受けられない。だから、市中金利ですごく高いお金を借りて、自転車操業をしていたわけです。
渡辺:戦後はそういう時期があったということですね。
福原:いや、それがずっと後までそうなんです。
渡辺:ずっと続くんですか。
福原:けれど26年だったかな当時日本勧業銀行の銀座支店長だった中村さんが、見かねて本店に稟議書を出してくれたんです。規定では資生堂にお金は貸せないけれども、一つは平和産業であって、これから間違いなく伸びる種類の産業であるということ。それからもう一つは、いい人材が揃っているということ。この二つを長所とした稟議書が通った。人材ということでは「書生堂」だったことが、ここで活かされたのかもしれませんね(笑)。
山本:丙業種の資生堂に融資をしようとするときに、その会社の人材まで調べているなんて素晴らしいですよね。先見の明を持った方だったんですね。
福原:しかし、稟議書を出して資生堂が潰れたらもう先はないですよね。結局、支店長はそれで成功したし、資生堂もそれで立ち直った。最終的にその支店長は、第一勧業銀行の頭取になられましたよ。
晴れて融資を受けられるようになり、企業として安定してきた。そこでこの先、企業というのはいい時も悪い時も一定数を採用しようというのが松本さんのお考えです。アメリカの場合は、大学を卒業するとすぐに部長や管理職なんですね。松本さんはアメリカ的な経営学を学んでいますから、それをやろうと思った。
ところが社員の大半が中卒、高卒ですからそれはやっぱりよくないということで、松本さんもある程度妥協して、大卒を採用はするけれども教育は丁稚奉公から積み上げていこうということになった。大卒定期採用の第1回目の年の入社が僕で同期が7人です。
7人採用して、何十年後にその中から社長が1人、副社長が1人出たんだから、やはりそういう政策は成功だったわけです。
社内のムードということでは、このあたりから徐々に変わっていったのではと思います。
渡辺:一概には比べられないと思いますが、当時の考え方などで、本当はいまも残しておきたいと思われるようなことはございますか。
福原:人間同士のふれあいを大事にするということは、いまも変わっていないけれど、そういう空気がなくなりましたね。
入社当時、僕たちはいろいろと第一線を回って勉強しろということで、工場、研究所、販売会社へと半年ぐらい行くんですが、行ってもどうしようもない。なぜかというと、そういうところでは中卒たたき上げの方々がいるでしょう。大卒の役に立たないやつを教育しろなんていっても、仕事をさせたって大した仕事ができない。工場に行ってもやることがないんですよね。
工場研修が終わると今度は、販売会社。セールスマンはみんな自転車でしょう。自転車でベテランのセールスマンの後ろに付いていくんだけれども、僕なんかが行ったってこれもまた話にならない。邪魔になる程度です(笑)。朝、出社すると専務さんという一番偉い方が「君たち事務所にいて何をするんだ。出ていけ、出ていけ」というわけです。当時のお店はだいたいお昼からですから、出ていったって得意先も開いていない。
渡辺:そうだったんですか。ずいぶんと、のんびりしていたんですね。
福原:特に下町の方はね。で、仕方がないので、セールスマンは自転車連ねて会社を出て、皇居前の広場で朝寝をする(笑)。それでお昼頃になると一膳飯屋でお昼ご飯を食べて、それから港区とか葛飾区だとかに自転車で出かけるわけです。
そうすると、お店がちょうど開いたころで店のおじさん、おばさんは暇で困っている。まあ、一杯飲んでいけなんて言われて、昼間から冷や酒ですよ。
渡辺:そんな時代もあったんですね(笑)。