まだ日本人がヨーロッパに行くことが稀だった1950年代に渡欧し、数多くの作品や文化に触れられたという、ギャルリーためながの爲永清司会長。パリで芸術を吸収しそして、西洋絵画をいち早く日本に持ち込んだ爲永会長ならではのお話です。
爲永:最近、下町かなんかで画廊をやりたくてね。
そういうところで寄席をちょっと見てこようとか、芝居一幕見てこようとかあるじゃないですか、江戸の粋というか。そういうのに憧れているんですよ。
というのも、今のこの銀座って欧米のものであふれているような気がするんです。もちろん欧米のものがあっていいんですけれど、「自分たち」というのは残さないといけない。
渡辺:これではまずいですよね。
爲永:いや、まずいって、それこそ知ってるのはみんな親父さんだよね。私だってもう意地張ってね。でも、いまだに残る絵描きというのを残していったでしょう。
渡辺:拝見させていただいております。
爲永:壹番館さんでスーツを仕立ててもらったのは、おそらくおじいさんの代の頃だと思うけれど。学生服を脱いで初めての洋服は、終戦後だからアメリカのぶかぶかの既製品を着てダンスホールに行って得意になっていたんですが、ちゃんと洋服をつくろうというので、壹番館さんへ行って、二着ほどつくったんです。それを着てすぐパリへ行ってしまった。その当時というのは、なんせパリに日本人がいなかった。だって、行くのに飛行機で57時間かかりましたから。
渡辺:丸々2日間ですね。
爲永:これはきつかったです。パリに着けば、壹番館の洋服を着てピエール・カルダンに飛び込んで「ジレのボタンは俺は5つだ、やつは6つだ」と言って言い張ったのを憶えていますよ。
山本:僕がご一緒させていただいたのは、なかなか会長と話したりする機会なんてないじゃないですか。ときどきオープニングでお目にかかりますが、ご子息の清嗣さんとは結構ここのところたびたび会っているんです。
爲永:もっと色々と企画してくださいよ。
だけど、私は本当のことを言ってもうパリの本社専門でとも考えているんです。向こうは景気がいいということはないけれども、悪くはない。今のようにお金の値打ちがなくなってくると、ますます絵に変えたいという人が増えてくるんです。だから、残るは東京画廊と壹番館と歌舞伎座ぐらいですか。
山本:そんなことはないですよ。
爲永:いや、それでいいんですよ。銀座にもある高級ブランドがあらゆるヨーロッパの街にも出ているけど、そこの街は街でちゃんとあるでしょう。
渡辺:小さくても地のものがありますね。
爲永:そう。地のものがちゃんと生きてる。銀座には何が残っているかというと、指で数えるほど。私も50年もここにいてお昼食べるところが決まってしまっているからまだいるけど、魅力がとても薄れてしまいましたね。
山本:今も資生堂さんは福原名誉会長を含め、陰でいろいろと力になってくださっていますよ。
渡辺:街のまとまりということをいえば、パリは通りや特定の地区でまとまって何かイベントなどを開始したりするんですか。
爲永:ありますよ。画商のフェアなんていうと、左岸と右岸とで結構もう大変な人数。うちの画廊だけでも200〜300人は入る。うちではシャンパンを出す程度だけど、それは結構大きなお祭りですよ。
山本:銀座の画廊の夜会というのは、「山本さん、こういうのをやったらどう」と清嗣さんからそのパリの話を聞いて始めて今40軒入っているんです。それはもう清嗣さんのおかげです。
爲永:いや、おかげも何も、40軒たって、昔、山本さんの親父さんがいたころは400軒ぐらいいたんだよ。
山本:そうですね。
渡辺:爲永会長は作家の方ととても長い時間お付き合いなさっていますよね。もう何十年にもわたって。
爲永:それが本当の画商でしょう。うちのアイズピリという画家が新しい絵を描いたと、そうすると私はその絵を見てここに空間があるから、ここには小さな絵をぶら下げて描いてみたらどうだとか、この女の子のシャッポは黄色いけど赤にしろとか言うのよ。
渡辺:そういうことをおっしゃるんですね。
爲永:そう、画商というのは画家のためにいるんだから。画家にもわからない部分はあるわけです。私は絵は描けないけど、下手な画家よりは絵は分かっていると思う。例えばフジタさんにしても、私がアトリエに行って「おやじさん、ちょっと空間が空き過ぎてるよ。これは鳥でも飛ばしたらどうですか」と言ったら「そうだな。これでいいか」なんていうことはたくさんある。
だから、うちの画家にはやはり私が付いていて言ってあげる。私の方がアイズピリよりも感覚に優れているとかではないんですよ、音楽もドビュッシーを聞いてもベートベンを聞いても、この辺が少しおかしいなと感じるところあるじゃないですか。私は洋服屋じゃないけれど、洋服を見ておかしいなと思うこともある。
渡辺:しっくりこないといったような。
爲永:ええ。絵でも同じで、私はよくするためにひと言ふた言いう。それが画商の思いですね。
山本:そうですね。
爲永:だって、うちの画家たちも含めて、画家は画商が拾わない前はゼロなんですから。
渡辺:人によって違うと思うのですが、画家の方とはどのように出会っていくんですか。
爲永:それはもう、とにかく見て歩く。暇さえあればもう靴が減るぐらい見て歩く。よその画廊も。それから展覧会、美術学校の何かがあったら見に行く。面白いやつをマークしておいて、しばらく見ていてよさげだと声をかけるんですね。
それから5年間ぐらいはただただ様子を見てる。今言ったように「ここ赤くしろ」「白くしろ」とか言って。それでこれはいけそうだなと思ったら、初めて画廊で発表する。でも、そのときにはかなりいい値段で出すのよ。それで、1年ごとにいくらバブルになっても、市場は保てます。その代わり世界中の市場をちゃんと持っていなければならないから、勝手なことはできない。
今は荻須をここでやっているでしょう。彼が亡くなるまで30年ぐらいかな、やっていたんです。そうするとバブルのときなど、とにかく荻須、荻須とうちへ画商が買いに来るんです。デパートなんかは「荻須展をやるから爲永さん貸してください」と来る。で、私は「あなた方は、とんでもない値段を出すから売らない」。と売らないものだけ貸したんです。そしたら、美術部の担当が来て「大事なお客がどうしても欲しいと言うので、何とかこの絵だけは売ってください」と。その絵は、うちのせがれが大学に入ったお祝いに画家がくれた絵なんです。
それで「どうしてもと言うけど、いくらと言ってるの」と聞けば「1億です」と言う。「1億って、私に1億払うのか」「そうです」と。その時うちは300万で売っていましたよ。そんなものをうちで売ったら、長蛇の列が並ぶでしょう。だから、嫌だからその時代は一番荻須を売らなかった。だって、出せば誰だって買っていくものね。
渡辺:どうして、そんな乱暴な話になってしまうんですか。
爲永:画商というやつは元が無いし、おまけに自分で全部コントロールしてないから、人より高く、人より高くとなるでしょう。だからそんな乱暴なことが起きるんです。もし私が荻須を1億で売ったとする、今度それを売りに来たら間違ったったって7,000万で買わなければならない。うちはせいぜい1,000万で売っているんだから瞬間的につぶれますよ。それでは怖くて画商なんてやっていられない。でも、デパートはそういうことを平気でやる。
渡辺:やはり母体が大きいと考え違いしてしまうんでしょうか。
爲永:大きさの問題ではないですね。
要するに画商というものはどういうものかということをいまだにわかっていないんだと思う。それと道具屋さんから変わってきている人が多いのも一因ですね。お茶道具ではこの棗(なつめ)は、これはどこどこから出たものでどうたらこうたらと訳の分からない値段が付いていく。落語なんかによくあるように、訳のわからないものを殿様が10倍で買ったとか。そういった世界なんですよ。
例えば渡辺さんが画廊へ行って気に入った絵があって買うとする、その時「この画家の絵を何点持ってますか」と聞いたらいいですよ。100点単位で持っていたら、それを安売りする訳にはいかないし、めちゃくちゃ高くするのは怖い。べらぼうなことはできませんよ。
渡辺:なるほど。
爲永:カシニョールという画家はご存じですか。
山本:ええ、知っています。
爲永:彼も私が見つけて育ててきたんですけれど、それこそバブルのときに何千万という画家になったんです。うちの作家としては格が下だから、デパートへ卸していたんです。デパートに卸すのはせいぜい70万ぐらいです。それをデパートは何千万で売るんだもの。そうなってしまうともうそれは、私としては保証のしようがない。
渡辺:その怖さというのでしょうか。何か膨れ上がり過ぎてちょっとこれは怖いという肌感覚というのは。
爲永:例えば、銀座でいえば空也さんの最中が毎日売切れになるほど人気ですといって、「では、1個10万円です」と売るかというとそんなことは普通はできない。そういうのは画商だけですよ。
渡辺:なるほど。先ほどお道具屋さんの話が出ましたけれども、日本の場合ずっとその感覚があったわけですよね。お道具屋さんと、いわゆる会長の考える画商さんはどう違うものなんですか。
爲永:それは、自分がものを生んでないということ。どこかから出てきた棗を、旦那のところへ持って行くわけでしょう。これは大したもんだから100万円だと言う。
渡辺:そこには流通しか存在しないわけですね。
こういうのはどうなんでしょう。例えば陶芸家を会長みたいにずっと若いころから目を付けて育てて、自分のところの作家としていたというのは。
爲永:いや、それはもう立派なものですよ。
渡辺:本来、そうなくてはいけないものなのに、品物だけを動かすからおかしくなってしまうんですね。
爲永:そう。みんな私のことをせっかく世界的な画家が描いてるのに、おまえが口出してああだこうだと出過ぎだと言うけど、そのぐらい画家と親密にならなければ自信を持って売れません。
だから、私がこの銀座であいつはお客に会ったことがないとか、頭下げたことがないとか言われるけど、それ以上のサービスを私はしていると思っています。夜遅くたって私は来たファックスにクレヨンで色を付けて、これでどうだと画家に送り返したりやってますよ。他の画商はでき上がったものを「おぉ、結構ですな」と言って売っているだけの話でしょう。
そんな楽しみのない仕事を私はしたくないから、画家と長く付き合って育てているんです。
渡辺:なるほど。
爲永:そういう意味では、山本さんの親父さんは本当に相手にされなかったものを商品にしてきた画商でしょ。だから、私は尊敬しているんです。画商だなと思っている。
それに、フォルム画廊の福島繁太郎さん。この方も唯一と言っていいほど画商的な画商でした。
渡辺:先ほど画家に対していろいろアドバイスするとおっしゃっていましたけど、画家も相当不安なものなんですか。やはり言ってもらわないと。
爲永:渡辺さんも壹番館の職人さんに「その襟はこうやった方がいいんじゃない」とか言うでしょう。
渡辺:ええ、言いますね。
爲永:それと同じですよ。それででき上がったモーニングは、壹番館の格調高いモーニングとなるわけでしょう。そういうものですよ。
山本:ある意味でつくることと見ることは別のことですよね。
爲永:そうですね。
山本:会長や父を見ていると、やはり画家さんよりたくさんものを見ているからアドバイスできるのであって、会長もアイズピリやカシニョールより相当たくさんの絵を見ていると思うんです。
爲永:絵だけではなく、私はうちの社員にも言うのだけどいい展覧会だといって、決まったようなものをばかりを見に行くなと。ルノワール展なんかも見に行くだろうけど、いい陶芸の展覧会や日本画、分野の違うものを見なさいと。本当にいいものは違いますよ。
私はそのために半世紀つぶしてしまったのだけれども、明治から昭和にかけて汽車を走らせたり、文明は西を向いていてよかった。だけど、画家まで全部西を向いてしまって、そのままその首が東へ帰ってこない。
ある程度、西を向くというのは分かるんです。絵というものが、白樺時代なんて文士も画家もみんな、セザンヌやルノワールの画集が届いたというとむさぼり読んだような時代だから、それは分かる。日本だって歴史の中で5世紀ぐらいまでは中国中国と何でもコピーしていた。それはいいのだけれど、飛鳥ぐらいになったら、もう日本のものにしてきたでしょ。そういう日本の文化があるじゃないですか。
渡辺:噛み砕いて吸収し、自分の中でオリジナルにしていったわけですよね。
爲永:それから日本の文化というのは誰にも侵されないで持ち続けてきたのに、明治になって西向けと言ったものだから、画家までがそちらに向いたまま。かわいそうながら油絵の絵具、材料が全部ヨーロッパのものだったから絵までコピーして描いていた。でも、よそのうちの文化というのには入っていけない、フォアグラを食べたからといって西洋を理解したなんて思わないでしょう。その程度のことなんですよ。
以前、富山でアメリカのドナルド・キーンさんと2人で食事しながら話しをしていたんだけれど、江戸の文学の話をしたって絵の話をしたって、日本人の私よりもはるかに詳しい。でも、食事に白身のお刺身が出てきたらお醤油の中で泳がせて食べてる。それじゃ漬けじゃないかと思った。あなた、今さんざん私にお説教して私も感心したけど、日本の食文化は知らなさ過ぎると大笑いしましたよ。
渡辺:同じことなんですね。
爲永:そう。私は1950年代からヨーロッパにいることが多かったでしょう。みんなからバター炒めの天ぷらみたいに言われたけれど、こちらも得意になってしまっていたところがある。だけど、芯にはやはり日本があるじゃないですか。だから、こんな野郎に負けまいと思ったところもあって、画壇の中でも大きい展覧会を25年続けたかな。
ピカソや売れてるフランス人の作家と日本の若い画家たち、さらには有名なものも置かなきゃしょうがないから、梅原龍三郎から何から全部集めて。そこで育った画家、我々がしっかりと選考した美術学校を出たばかりの若くて優秀な画家が東へ向いてくれるかと思ったの。しかし、残念ながらダメでした。
だけど、それはいまだにフランスの油絵具で描いている以上、仕方ない部分もあるんです。なぜなら、フランスのセーヌ川のあの緑、あれでチューブの色ができたでしょう。壁の色、あの白壁のそれからホワイトができたでしょう。だから、それで描けばいい。混ぜてはいけないものなんです。だから、まずは画材を変えなければいけない。それも私はいろいろ取り組んだんだけど、成功しなかったんですよ。
渡辺:まず材料からなんですね。
爲永:材料です。だから、それが変わらないことには不可能。
渡辺:逆にそこが変わって、それをパリに持っていったら。
爲永:いや、持っていかなくて大丈夫。その道具を持って鎌倉に行き、奈良に行き、そして日本の文化に浸りながら描いていれば、日本の絵というのができますよ。
渡辺:いまだに日本の近代絵画というのはないのですか。
爲永:ないですね。抽象は入りやすいから何とかなるのだけれども、具象の絵はそれができない。でも、私に言わせればピアノをたたいて、東洋人がそこまで個性が出せますかと言ったらそれはなかなか難しい。
渡辺:なるほど。どこかでやはり最後、お刺身を醤油でべちゃべちゃにしてしまっているのでしょうね。
爲永:そうですね。小澤征爾さんがヨーロッパに受けるのは、例えばベートベンの第九でひばりがだーっと飛ぶイメージをフルートが何本も入ってうるさいほど鳴らす。外国人が演奏しているとそれが普通なんですね。ところが小澤さんがひばりという概念でやると、春のぽかぽかしている日に2〜3匹スッと舞い上がるイメージ。それはフルート1本でいいですよね。でも、楽団には何本も並んでいるから、彼は少しフルートを低くさせる。聞いてる外国人たちは、ああ、変わったステージだねと。そこも受けているんじゃないですかね。
だから、本来のベートベンじゃないと思う。それはなぜかというと、小澤さんの血からお醤油が抜けきってワインが入ってるならベートーベンの世界がわかるけど、味噌汁飲んでいる人間にベートーベンの世界はわからないでしょう。
渡辺:(笑)、面白い考えかたですね。
爲永:だから、絵だって同じですよ。西洋のものまねではなく日本的な表現をするべきで、例えば奈良の土塀を見たってもうそのままキャンバスに貼り付けたらいいと思うほどに味がある。その味を知っているというのは、日本人の大きな武器ですよ。
渡辺:味というのは、あじわいみたいな。汚れた味とか、素朴なお茶碗の味とか、風情とかそういう。
爲永:そういうものは我々しかわからないものではないですか。
山本:今の会長の話を聞いていて面白いのは、やはり文化には質感がある。
爲永:絶対にそうですよ。
山本:その質感と技術。新幹線の技術はどこでもある。その前に材料という問題がある。だから、フランスの質感を出すためにはフランスの材料が必要で、そこに技術が付帯するのだけれど学校では技術しか教えない。だから、フランスの油絵具を使わないのに油絵を描く技術を教えてきて、質感がないというのでおかしくなってしまっているんだと思うんです。
爲永:そうそう、そうなんです。
渡辺:明治以後、近代化が進んで技術はある程度進んだと思うんですけれども、やはりその質感が決定的に欠落してしまっている。
爲永:もう油絵具というバターやラードは分かったんだから、それで洋食をつくっている分にはいいですよ。でも、それでは本当のフランス料理ではない。もう今は、ヌーベルキュイジーヌとデコレーションの世界、これは日本人はうまいですよ。だけど、フランス料理とは関係ないと思いませんか。
山本:そうですね。カリフォルニア巻とお寿司が関係ないということ。
爲永:そうそう。むしろ今、日本の文化を売るときなんだと思う。これが本当の日本の味ですよ、素材ですよと。今こそ日本はお料理でも日本の食文化というのを世界に売り込める。売り込めるというのは、日本でじっとしていればいいんです、買いにくればいいのだもの。日本でしか本当の日本の食文化、東洋の食文化は味わえないというのを教えればいいんです。
日本はすぐに何かというと外国に出ていかなければとか、たくさん生産しなければいけないというけれど、それはちょっと違う。トヨタの職工さんは朝起きて中日新聞を必ず見る。そんな教養がある職工さん世界にいますか。その職工さんが何かを組み立てれば、それは欧米に勝てますよ。
でも、国外に出て数を売るだけじゃ自動車に賭ける夢がなさすぎると思いませんか。フェラーリがそうですよね。あんなに小さくたって、いまだに何年も待たないと買えないフェラーリがあるでしょう。日本だって、トヨタの技術と教養を持った職工さんが数を少なくして作ったら、フェラーリ以上に待たなければならない車ができるはずです。渡辺さんだってファストファッションの隣で何かやりたい?
渡辺:なかなかそうは思えないですね。
爲永:そうでしょう。昔なんか見てると、サミットで羽田に来た外国の総理がお出迎えで乗る車はベンツかキャデラックですよ。日本はトヨタや日産といった世界を制するようなメーカーを持っている国で、日本車にもいいものがあるんだから国産車に乗ってもらって日本の車は素敵ですねと、なぜそうしないのかと思うんです。相変わらず大使はベンツかなんかに乗っていますしね。
オーナーやリーダーに夢がない。日本すべて、銀座もそうだと思う。本当に何人かしかいない。本当だったら足袋屋がいて小間物屋があって、帝国ホテルに泊まって銀座で楽しんでくださいとならなければいけない。
山本:パリはうまくいきましたよね。新しいところと古いところを分けて、デファンスのあちらはすごく超近代だけど、古い市街地を残したから。
爲永:古くても、残すというより壊せないんです。
だから、彼らだって困っているけども意地を通している、小さくてもいろいろないい店がある。
渡辺:今、仮に若い日本人の画家の方がいらっしゃるとして・・・。
爲永:うーん。私が彼らを育てるために25年かかって出資をして展覧会を続けてきたけど、東を向いてくれない。
渡辺:いまだにそうですか。
爲永:いまだにそう。「それでは、フランス料理食べに行くか」と言うと「いえ、爲永さん、お寿司ごちそうになりたい」と。では、なぜ日本の絵を描こうとしないか。頭だけが向こうに向いてしまっているんですよ。