銀座人インタビュー<第10弾>
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第10弾〉日本の、銀座の、美術
ギャルリーためなが 爲永清司会長 × 東京画廊 山本豊津様

文化を生み出す

爲永:壹番館さんのビルはいつ建ったんですか。

渡辺:昭和38年です。

爲永:そう。竣工のときに上の方の階が空いてたんです。景色はいいし、そこに社交クラブみたいなものを作ろうかという話が持ち上がったことがあるんです。というのも、そのころ私たちが目指していたのはやはり日本の文化ということなのだけれども、銀座にラモールというバーがあったんですが、そこには夜な夜な銀行の頭取や文士、画家、音楽家、建築家なんかが集まっていたんです。そういう人たちが酒を飲んでもいい一緒の空間にいておしゃべりをする、これがあるときはひとつの文化ができるんです。
 例えば、洗濯船(パリに所在するアパート)なんてモンマルトルにピカソもモジリアニもローランサンも詩人も音楽家も集まって、夜な夜な勝手な話をしている。そういう場所から文化というのは生まれる。だけど、画家だけ、文士だけが張り切ってもだめなんです。
 だから、そういう場を壹番館の上につくろうと思っていたんですが、私がパリへ行ってしまったりでやめてしまった。私はそういう文化が生まれる場所を作りたくてしょうがなかったんです。

渡辺:それが実現できていたらと思うと、とても残念です。

爲永:昔が面白かったというのは、私にしてみれば勝手なことがやれたんです。パリまで57時間。そんな時代です。私が帰ってくれば、私の周りは新聞社の美術記者が待ち受けているわけです。それで、何だかんだ、向こうはどうでしたか、こうでしたかと聞いてくる。例えば壹番館の前の東芝ビルの上を全部借りてユトリロだけでも何百点と持ってきて展覧会をしたり、ボナール展をやったり、各新聞社に段取ってあげたんです。なぜかというと、その当時、フランスのコレクターや美術館が絵を貸し出すのに日本の新聞社を相手にしなかったわけです。そこで爲永なら何とか大丈夫だろうといって、私がサインしていたんです。
 その後フランスでも日本の新聞社というのはしっかしたものだというのがわかって、それから展覧会の数が増えていきましたね。

渡辺:一番の最初は仕掛けをやられてたんですね。

爲永:そう。だから、呼び屋なんて言われたこともありますよ。

山本:やはりパーソナリティですよね。サンモトヤマの茂登山会長なんかも、そういう方ですし。

渡辺:今のお話を伺うと実際にヨーロッパに行く、たくさんの絵を見る、そういった実体験がないと動いていかないですね。

爲永:向こうで私は確かに修行しました。でも、本当にパリの中で何かをやっているのなら、自分は東洋人だけど負けていられないという思いがありました。
 本当にフランス人でパリで一流の画商をやっていたというのは、何人かしかいないですよ。

渡辺:面白いですね。

爲永:画家だってそうです。国籍なんていろいろで、本当にフランス人なんて少ないです。そこで、やってやろうと思ってやったけど、さっきの話のように本当にはフランスを理解できない。
 私の卒論はセザンヌ否定論なんです。その当時、そんなことを言っていたら、注意人物にされてしまって。教師が「ちょっと爲永あんまりこういうことを書いちゃまずい」とか言われたぐらいです。それはそうですよね、神様だったもの、世界中で。特に日本がセザンヌというと、もう神様みたいに言う。

山本:パリというのはいろいろな国の人が来て、その人たちが固有の文化を持っていて、それでパリで議論して、パリから独特なものが生まれたわけじゃないですか。日本はもともとそんなコスモポリタンがいないところに、会長みたいに不思議な人が帰ってきて、そこへワッと寄るわけでしょ。だから、パリとは正反対な国かもしれないですね。

爲永:正反対なのだけれども、昔はそれこそ中国や韓国から文化が渡って来ても、それをちゃんと咀嚼して日本のものにするじゃない。この明治以降は周りが周りだから、洋服を着て、ステーキを食べて、そのくせまだ味噌汁を飲んでる。中身はしっかり日本人。
 絵なんていうのはやはり自分の血が出てくるものでしょ。血で描くものでしょう。だから、私が先に行って何をしたかというと、私は終始日本人の画家を育てたかった。育てるというのは日本の中で日本の絵を描かせたかった。だけど、残念ながら、今日まで1人としてそれがいない。

山本:今、中国の作家を清嗣さんがやっていらっしゃるのですか。

爲永:ああ、チェンですね。
 彼は私が10年ぐらい前に見つけたんです。それまではいろいろな画廊に委託して、売れれば半分もらっているという画家だったんですが目を付けていて、訪ねて行って。

山本:やはり中国にいるわけですよね。日本もパリにとってみれば東アジアですよね。

爲永:そうそう。東洋です。だから、チェンなんかは私が言うこともわかるんです。このぼかしなんていうのは、大観のぼかしというのがあってこうだとか、逆に日本の宗達やなんかの絵を贈ってやって勉強しろとか。だから、そういう楽しみはありますよ。

山本:僕は思うんですけど、やはり会長や父を見てると、ジャンルを選ばずにあらゆるものを見ていらっしゃいますね。
 今日もびっくりしたのは、会長が日本の文化のこと、歌舞伎や落語の話しかり、下町に画廊を出そうなんて言っていたのは考えもしなかったのだけど、やはりそういう日本の文化もパリの文化もパラレルに見ている。そのような感覚を画商が持っていないと、画家にアドバイスできない。

爲永:そうすれば、先ほどのトヨタではないけど、世界中が買いに来ますよ。そ芸術活動とは言わないけど、画家がこんなにたくさん絵を描いている国はないですよ。

山本:展覧会活動ですね。

爲永:そう。日展だ、院展だとくたびれるほどあるんです。それなのにそれが違った方向を向いて描いているから。

山本:そうですよね。

渡辺:もれなくそちらですか。
 何か引っかかってくるものはないですか。

爲永:ない。本当に恥ずかしい。だから、渡辺さんなんか自分の筋を通して英国紳士というスタイルで、洋服をつくっているというのはある意味幸せですよ。

渡辺:ありがとうございます。でも、まだ調整がついていないんです。うちはもともと長野の呉服屋なんです。

爲永:本当の「日本の服」をつくってよ。

渡辺:そうなんです。

爲永:パリでマキシムにカルダンのタキシードを着て得意になって行くでしょ、そこで後から入ってきた男がおじいさんか何かの燕尾服かなんかを着ている。見ると、その煤けた燕尾服がぴったり顔に合ってるんですよ。私は何だかお雛様の首をついだみたい。もうがっかりしてしまう。日本の服というのかな、そういうものが欲しいと思いますね。

渡辺:そうですね。多分そこを消化するのが、私の役目だと思うんです。

爲永:そう。だから、あなたのところは英国紳士というのを通している。これで、既製の輸入物とごっちゃになってきては困る。フランス辺りは抜き襟の洋服になってしまうでしょう。

渡辺:はい。

爲永:でも、私が嬉しいと思うのは、泳いで行けるようなところにイギリスがあるわけじゃないですか、こちらはフランスでそこに洋服文化の違いがある。向こうはキチッとして、こちらは抜き襟で。だけど、フランスではそれでなければ風景に合わないんです。

渡辺:着物を着るわけにいかないですか。

爲永:実は、恥ずかしかったけれど、パリでは昔着物を着ていたんですよ。シャンゼリゼでもどこでも袴を着て出かけました。

渡辺:パリでですか。

爲永:そう、50年代。それで、大使に呼ばれて「おいおい、君、今日も新聞の最初のページに出てたけど、ああいう格好は国賊ものだよ。日本では漫才師がやるものだろう」と言われてね。

渡辺:大使がですか。

爲永:「君、考えるものだよ」とね。そう言いながら反面「おでんを炊きましたから」なんて持ってきてくれる。「今フジタさんの帰りです」なんて言って、その2軒には届けてくれたぐらいだから無視はされてないのだけれど。怒られました。そういう時代です。

渡辺:東京では着物は着ないんですか。

爲永:恥ずかしいですよ。
 おまけにちゃんと着られないから。それもしっかりと着物の文化がわかって着ていればいいですよ、粋な着物を着たいと思うけれど、はだけてしまうしアクセサリーも何を持っていいのかわからない。

渡辺:今日お話ししていただいている、そういう本当の日本のもの。日本にいて海外から買いたいと言っていただけるようなものをつくるのは今の世代ですね。それをやらないと本当に銀座はもとより日本もなくなってしまいますね。
 やはり先ほどおっしゃっていた中国文化をかみ砕いて日本のものに変えたように、この時代をしっかりと、噛み砕いて消化しないといけないんでしょうけど、噛んでいないんですね。ただ飲み込んでしまっている。ここは意識して変えていかないといけないですね。

爲永:本当にそう思います。

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一流を日本に

爲永:私が帰ってきたころは山本さんの親父さんの時代で、まわりの環境は抽象絵画中心で、周りは「タメさん、今、抽象絵画をやったらトップになれるからやろうよ」と言うんだけど、逆に私は先ほどの音楽の話じゃないけども、基礎をやっておかなかったら、基礎というのは具象、ものを描くということができなければもう全部なくなってしまう。抽象もいいけど、できたやつが抽象をやるのならいいけど、できもしないやつが抽象をやると本当にゼロになってしまうから、具象をやろうということで具象をやったんです。
 好きとか嫌いとかではなくそういう変な使命感というか。やはり、根には何としても日本の絵をつくりたいという思いがあったんです。
 ただ、この間のドンゲンもその前のデュフィもそうだけど、日本人があまり扱わなかった一流品が買えるでしょう。二流品、三流品を扱う画商は嫌で、入れるのなら日本に一流品を入れたかった。でもドンゲンとかデュフィはいまだに反響が薄いです。

山本:そうですね。あれは日本人にはわからないですよ。

爲永:わからないかと思う。日本人には、セザンヌが一番わかりやすいんですね理屈だから。もう数学か幾何みたいなもの、分析できるんです。
 評論家たちにとっては本当にいいお手本なんですが、それで評論家がしゃべるとみんなが神様のようにあつかう。だから、ちょっとした反骨精神から卒論でセザンヌ否定論なんてものを書いたんです。

渡辺:今、絵を買い始めた人には何をアドバイスをされますか。先ほど「せっかく買うなら少し無理をしてもいいものから始めた方がいい」と。

爲永:それはそうですよ。でなければ買わないほうがいい。
 私は絶えず日本の文化ということを考えていて、ノーベル賞みたいなものを考えたことがあるんですよ。

渡辺:ノーベル賞ですか。

爲永:ノーベルは面白い人で、化学だ物理だ、それに文学を入れた。だから、川端さんも受賞したときに「爲永さん、えらいことになった。僕の文学を誰が訳して誰がわかるんだろうか、本当にわからないよ」と非常に良心的なことを言っていたけど。
 こんな賞をなぜ本気になってつくろうとしたかというと、ノーベルというのは文学は入れたけれども、あとの音楽とか演劇、建築みんな抜けているんです。それこそ第三者が見ていいとか悪いとかと言えるものでしょう。私は試算して、その当時で20億の資金の回転で年に2度世界各国から識者を呼んで、京都辺りで会議をする。
 条件として、この賞には一切政治家はかまない。それから、5年間は日本人には出さない。そのころは丹下さんなんか生きてらっしゃったから、そういうことを話した。おまけにこの20億、私はお金がないけれども言いだしっぺだから1億は出そうと。あと、ソニーの盛田さんとかに話して何億か出してもらって、それも名前は5年間伏せると。5年経ってから、こういう人々が20億出したと公開するんです。
 ノーベルは何で音楽や演劇、建築なんかを抜かしたのかと思うんです。もしこの話をフランス人が聞いて、フランスでやろうとしたらやはりフランスは出しますよ。

山本:そうですね。

爲永:そうでしょう。連綿と千何百年続いていた文化を持っているこの島国がやれば、それは世界中が乗ってきますよ。

渡辺:説得力はありますよね。

爲永:残念ながら、本当に日本のことを考える人がいないんです。
 銀座賞ですね。私は20億は出せないし、今なら200億になるかもしれないけれど、200億になっても今のノーベル賞に代わるものをここで出せたら凄いじゃないですか。

渡辺:そうですね。

山本:人を集めるというのは一番お金がかからないかもしれないですよね。

壹番館洋服店 渡辺 新 壹番館洋服店 渡辺 新

爲永:本当にそういうことをしていかなかったら、この島国、世界に残れませんよ。

山本:そうですね。

渡辺:今、もう結構危ないところですね。本当にいなくなってしまいます。

爲永:もう危ないですよ。あなた方は何か面白いことを起こす力があるのだからどんどんやればいい。

渡辺:もっと形にしていかないといけないですね。本当にそう思います。

爲永:歌舞伎があって、東京画廊があって、壹番館があって、ちゃんとした画商がいて街をつくっていったら、それは世界の銀座になりますよ。

渡辺:はい。これからも、またご指導をよろしくお願いします。
 本日は貴重なお時間をいただきましてありがとうございました。

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