渡辺:金沢から出ていらしたのはいつ頃ですか。
小寺:初代の朔次朗が出てきたのが明治20年頃でしょうか、その後、明治30年に小寺商店が創業しました。
当初は銀座の旅館で下働きをしていて、泊まりのお客様からこちらのほうに家を持ちたいのだけれど探してくれないか、と頼まれたのが始まりだそうです。
渡辺:そのお手伝いをなさったわけですね。
児玉:そうですね。旅の人が「ちょっと坊主、探しているんだけれどいい土地はないかい」という話があったかはわかりませんが、「じゃあ地主さんのところに行ってきましょう」というところではなかったのでしょうか。
昔は銀座というのは地主さんばかりでしたから。今でも大地主さんが残っていらっしゃいますけれども、それこそ昔は地主さん何人かでずっと銀座をお持ちになっていたと思います。
渡辺:今ほど分かれていなかったのですね。
児玉:昔は4大地主みたいなところがありまして、たくさんの土地をお持ちでいらっしゃったようです。
ただ、相続のたびに細分化していくという、いつもの流れになるわけです。古いご商売の方で、呉服屋系の方はもともとそういう方が多いです。聞くところによりますと、炭のご商売の方もあったそうで、炭で財を成されてけっこう土地をお持ちだと聞きます。
渡辺:つい最近まで、ソニービルの横に練炭工場があったと聞いてびっくりしました。
小寺:炭はお隣の「竹葉亭」さんがお使いですから、いい炭があったら分けてもらったりしていました。
渡辺:お隣は「竹葉亭」さんですか。
児玉:そうなんです。うなぎを焼く薫りでご飯が食べられるので、おかずいらずです。(笑)
渡辺:本社の建て替えはいつ頃でしたか。
児玉:平成21年で今年でもう3年です。
小寺:建てた当初から70数年ずっと住んでいました。
渡辺:お仕事は二代目の方から完全な不動産になるわけですか。
児玉:そうです。それと、昔は権利金が必要で電話が簡単に引けなかった時代だったので、その売買の仲介も仕事にしていました。免許制だったようで、うちは登録が古いものですから、最近までよく「電話買ってくれませんか」と電話がかかってきました。(笑)
小寺:結局不動産事業と関連していまして、事務所を閉めるときに電話がいらなくなってしまう、そこで買ってくれないかとなって引き取りするわけです。あとはいい番号が欲しいという方もいました。
平松:電話の権利売買は戦前からされてらっしゃったのですか。
児玉:そうですね。古いもので「逓信省公認東京電話営業組合員」という看板が残っています。
渡辺:ずっと銀座にいらっしゃいますが、銀座もどんどん変わりますよね。
小寺:変わりますね。私が知っているのは昭和27年からです。
その前に遊びに来たりはしていましたが、学校を卒業してから銀座8丁目の会社にお勤めしたのですが、当時は砂利道でした。消防署通りもきれいな舗装ではなく、表通りも2階建ての土間があるようなお店も沢山ありましたね。
渡辺:レンガの建物は大震災で全部壊れてしまって、そのころにはもう残っていませんよね。
小寺:ありませんでしたね。木挽町でもこの辺一帯は焼けずに残って、古い粋な黒塀のおうちや、吉田首相がよく訪ねてみえたというお料理屋さんだとかがいっぱいあって、本当に静かで素敵なところでした。
渡辺:静かだったんですか。
小寺:はい、静かでした。粋な三味線や流しが聞こえたり。私が嫁いできた頃は、あっちにもこっちにも三味線や小唄のお師匠さんがいました。
渡辺:それこそ芸者さんの数も今とは比べ物にはならないくらい、いらっしゃいましたよね。
小寺:置屋さんも多かったです。子どもの同級生の家も置屋さんだとか、おばあさまが人間国宝だというおうちもありました。
渡辺:そういう町の風情ががらっと変わってしまったのは、いつ頃でしょう。
小寺:やはり、バブルのころでしょうか。だんだん住居がなくなり、子どもたちもずいぶん減ってしまいました。
渡辺:子どももいなくなってしまいましたか。
小寺:朝の集団登校で6年生が1年生を連れて行っていたんですが、今はバラバラですね。おうちが少ないから、集まるほど子どももいなくて。でも泰明小学校に入りたくてマンションへ引っ越して、住所がほしくて寄留する人もいますが、特別に寄留しなくても、お勤めしているおうちのお子さんは優先的に入れます。
渡辺:先ほど、バブルで街の景色が一変したとおっしゃっていましたが。
児玉:私はもともと後からお手伝いに来ているわけでして。来たのは平成7年です。当時はそれでもまだ家並みが残っていました。ここの前には「ちた和」さんという呉服屋さんがありましたし、この辺りは大きな置屋さんがあって、芸者さんがいらっしゃったりという環境でした。そのへんがなくなってしまったのは、リーマンショックの前のファンドバブルです。
渡辺:不動産ファンドバブルですね。
みんな駐車場になってしまいましたね。それ以後、なかなか建物が建たないのは良くないですね。
児玉:結局簿価が高いので、動かすにもなかなか損切りできないという流れになっているわけです。
渡辺:塩漬けというのも街にとっては良いか悪いかは本当にわからないですね。
児玉:良くないと思います。そうはいっても最近少しずつ目線に合った値段になってきていて、そういうものは動いています。
渡辺:扱っていらっしゃるのは、ほぼ銀座ですか。
児玉:仕事の7割くらいは銀座という感じです。
基本は銀座つながりが多く、銀座の企業さんが持っている他の土地のマンションを管理するといったことも結構あります。先代は熱海の裏道に詳しかったのですが、なぜかといいますと、銀座のお客様の別荘があったりなどして行くわけです。そういうものも含め銀座つながりがとても多いです。
渡辺:不動産の方から見たときに、銀座特有の特徴といったものは見受けられますか。
児玉:やはり、良い時も悪い時も、ものすごい瞬発力といいますか、良い時は一気に良くなりますし、悪くなるときは最後まで悪くならないぞと頑張ります。例えば、良い時なんかはよく路線価が出て実際相場はいくらかという話になりますが、今は本当の路線価と実際の相場のバランスがとれていると思うのです。公示というものがあって、その下に路線価があって、固定資産税評価額という3つがあるわけです。
国は公示というものが本来の相場で、その八掛けが路線価だといっているわけですが、実際には相場というのは路線価からみると上でして、路線価格の1.15倍だというのですが、一度上がり始めると3倍ぐらいになってしまいます。
といいますのは公の価格が上昇に対して追いつかないわけです。下がるときもまたすごい勢いで下がりますから、なかなか追いつかない部分もあるのですが。
渡辺:何か変だ、数字でみても肌感覚でも、この値段はおかしいと感じる時はございますか。
児玉:先代が言っていたのですが、何十年もやっていますとだいたい経済成長と同じくらいの割合でしか地価は上がっていないわけです。それ以上にどんどん上がっていくとなると根拠がない。
要するに土地はあくまでもそれを使ってなんぼだというのです。それが騰貴だけになってしまったことがすでにおかしいと感じるわけでして、バブルが終わって昔からのカーブを見てみますと、その山のコブを取ってしまうと右肩上がりでスーッとなだらかにきています。山を取って見てみれば、実は経済なりにしか地価は上がっていないのです。
平松:ホームページの数字はこちらで実際にお取り引きした数字ですか。
児玉:それもそうですし、実際に当時調査していて見聞きした数字を書いております。コブを切ると本当はそれなりにしか上がっていないということがわかるので、やはり異常だったのではないかと思います。
渡辺:でも、そのコブのところが実態だとみんな思いたくなりますよね。
児玉:コブではなく登り坂なんだと。未来永劫、登り坂だと思いたいのですが、コブなのです。切らなくてはいけない。
渡辺:戦後、いくつかのコブがあったわけですが、小寺商店さんの中で言い伝えや家訓などはおありですか。
児玉:基本的には、土地というものは経済の元であって、要するにそれ以上のものではない。だから経済が落ちればそれなりのものであるし、良くてもそれなりのものでしかないということ。常にそういう目線を持てということは言われておりました。
渡辺:以前、こういう話を聞いたことがあるんです。誤解を恐れずに言うけれどもという前置きがあったのですが、「銀座に神様がいるとすれば、銀座の土地の神様はけっこう残酷な神様だ、と。割と見切りが早い、世の中に合わなくなった商売はスパスパ切り捨てていってしまうんだ。」と。ですから銀座の神様は優しい反面、けっこう怖い面があるとおっしゃっています。
児玉:まず銀座という街は、非常に間口が広くハードルも低いです。私なんかは外部の人間ですから、最初、銀座は京都みたいな街かと思っていました。ところがそうではなくて、壁などないのです。どこからも見えるし、どこからでも入って来られるわけですが、銀座独特のスタンダードに合わない人たちは退場してしまいますね。
渡辺:100年以上、銀座で不動産をやられている中では、バブル期にワーッと後ろから乱暴に入ってきてぶつかられたりするわけですよね。そういう時というのは、どういう感覚ですか。
児玉:私が端から見ていますと、銀座の中心街の人たちは実はバブルの時にはあまり土地を売っていません。それはそこが「家業のお店」でありまして、売れば高く売れることはおわかりなのでしょうけれども、比較的手放されていなかったと思います。
家業ではなくて、会社的にやっている方で特に銀座でなくてもいいという方の中には売った方もいるでしょうけれども、基本的に「家業」はそこしかないということですから、どんなに値上がりしようが何をしようが売らないということです。バブルの時は、銀座の中心部は移動があまりなかったのではないかと思います。
渡辺:では土地をお金儲けの道具としては考えていないと。
児玉:全くそういう感覚はなかったのでしょうね。やはりご自分の家業はそこでやるべきだという精神なのでしょう。
平松:社長は不動産の勉強はこちらでされたわけですか。
児玉:そうです。
平松:95年にこちらにおみえになって、先代の背中をみて勉強されたのですね。
先代の方からこれだけは守るようにと厳しく言われたことはありますか。
児玉:それは信用です。とにかく作るのは50年、100年かかるけれども、壊すのは1日だとよく言っておりました。それから、小寺商店は不動産業である前に銀座の商人なのだと。あまり強くは言いませんでしたが、いつも「商人」という言い方をしていました。
渡辺:商人とビジネス企業とで、その違いはどこにあると思われますか。どういったことに商人らしさ感じられるのでしょうか。
児玉:やはりまず当たり前ですが、挨拶です。誰が来てもまずは頭を下げなさい、そして必ず感謝を述べなさいと。要するにそれがまず商人の基本であるということです。どこにどういうお客様がいるかわからないわけですから、とにかく姿勢を低くしなさいということでした。
渡辺:先代もとても丁寧で、笑顔が特別に柔らかい方でした。今、不動産ビジネスで先代のような穏やかな笑顔をなさっている方は、あまりいらっしゃいません。
児玉:そこが「商店」ですから。
渡辺:素晴らしいと思います。本当に商店なのですね。
児玉:小寺エンタープライズではなく、あくまで当社は「小寺商店」であるわけです。
弊社には、公図の元になったような図がありまして、今の区割りが全部書いてあります。要は震災復興図なのですが、関東大震災のあとにこの辺り一帯に区画整理がありました。もうボロボロになっていますが区別になっていまして、震災があって全てゼロから区画をし直そうと。こういうことをきちんとやったので、銀座の土地はしっかりしていて、私どもが取り引きに立ち会いましても、当時にやっているものですから、ブレが少なく済んでいます。
渡辺:朔次郎さんがご自分で作らせたのですか。
児玉:恐らくお手伝いをしていたのでしょう。役所の仕事だとか、色々なことをやっていたと思います。
平松:そうしますと、この形は関東大震災の後にできたわけですか。
児玉:元々は違うでしょう。ベースは明治のあたりにできていたと思います。
渡辺:これは大正のころでしたか。昭和の最初のころでしたか。
児玉:区画整理が全部終わって。多分昭和の初期ころでしょうか。どこかに書いてあります。
平松:これはご自分のところでおつくりになったら大変ですね。
児玉:公図そのものは国なりが。それを手伝っていたという話を聞いています。その意味では明治でもなくて、製作年度は不明ですが恐らくは昭和の初期ぐらいかもしれないです。とにかく区画整理がきちんとされていました。例えば売買のときに街区全体を計るわけです。まず四隅をおさえると、中は当然決まってきますが、それから分けていくときに、昔は縄で計っているので湿度によって伸びたりするのでその分が多少ずれることを「縄伸び」といっておりました。今は機械がありますけれども、昔は夏と冬で多少違うということもありました。
それこそ「土一升金一升」と言っていたように、少しぶれると問題になりますが、昔の資料がきちんとしていますので、やりやすいです。
渡辺:極めて近代的に整備されていますね。
児玉:合理的にできている気がします。