銀座人インタビュー<第12弾>
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第12弾〉継承される初志貫徹
ナイルレストラン オーナーのG.M.ナイル様

お父様はインド独立運動家でありナイルレストラン創業者のA.M.ナイル氏。 その次男として生まれたG.M.ナイルさんが、戦後間もない頃から見てきた銀座の街を、ナイルさんならではの視点で語ってくださいました。人に、カレーに、真っ直ぐに向き合われているナイルさんのお話です。

特別な街「銀座」

渡辺:ナイルさんはお父様の代から銀座でナイルレストランを経営されていますが、銀座はどんな街だと感じていらっしゃいますか。

ナイル:僕が思うのは、銀座は特有な街だということ。よく僕は言うんだけどニューヨークの五番街、パリのシャンゼリゼ横の大商店街、ロンドンのピカディリーサーカスなどと比べても銀座は別格なの。

渡辺:それはどういった所が違うのでしょうか。

ナイル:まずは、銀座1丁目から8丁目ほどの空間にこれだけいろいろなものが凝縮されている場所はない。私は飲食店をやっているから飲食店で見れば、日本料理だけでも沖縄から北海道まで、インド料理も南インドから北インドまで全部ある。

渡辺:銀座にですか。

ナイル:あります。イタリアンがあってフレンチがあって、どちらもあらゆる地方の料理が銀座に揃っている。こういう街はちょっと他にはない。それからドメスティックに見れば日本全国に「何々銀座」がいっぱいありますね。

渡辺:800くらいあると聞きました。

ナイル:ところが、その「何々銀座」と本物の銀座には大きな違いがある。これは意外と銀座の人間も気が付いていないのですが、銀座で商いをやっていても銀座には住んでいないということ。ほかの地方の何々銀座は、そこに住んでいるんです、しかしこの銀座に住んでいるオーナーはほとんどいません。それなのに、皆さんどこに住んでいても自分が住んでいる街よりも銀座を愛しているんです。それが、ここ銀座が別格なる所以です。

渡辺:自分が商いをやっている街が日本で一番素晴らしい、世界で一番素晴らしいと思ってそこで活躍しているんですね。

時代に見る変化

ナイル:僕は生まれが戦中で、終戦直後の銀座はよく知っているんです。
 当時は尾張町の交差点をGIが闊歩していた。進駐軍が東京に入ってきて、まず道路に名前を付けた。それが晴海から今の日比谷通りまでで、Aアベニューと呼んだんです。何でAアベニューといったかというと、これが一番中心であるからと。それこそ銀座のど真ん中を通る道が中心だったわけ。そういう時代から銀座は中心だったんです。
 PXの奥ではとんがり帽子をかぶったお姉さんが、ソフトクリームを作っていてそれを日本人がガラスの外から見ている。いったいあれは何だと。(笑)それが初めて進駐軍の豊かさを目の当たりにした時でしたね。

渡辺:ガムを配っていたという話も、よく聞きますね。

ナイル:GIが子どもたちにガムを配っていた。当時日本人はガムなんて知らなかったんです。でも、知らないで口の中でクチャクチャやったら、おいしいのなんの。だって最初のころはコカ・コーラを口に含んで吹き出した人がいっぱいいた。何故かって、あんなに苦くて、変な毒でも入っているんじゃないかと。(笑)

渡辺:その時代の商売、商いはどのような感じだったんですか。

ナイル:うちの店が始まったときは誠に残念だけどお客様がほとんどGIだった。

渡辺:当時は銀座も治安が悪くて露天商が1丁目から8丁目までずっと出て、特に昭和通りなんて夜6時過ぎたら怖くて歩けない場所だったと聞きますが。

ナイル:怖かったよ。新宿の歌舞伎町のほうがどんなに美しくきれいに歩けたか。もう本当に怖かった。それがあっという間にこんなに素晴らしい街になったのは、やっぱり各お店、各企業の努力もあったし日本という国自体がグレードアップしてきたということでもあるんだけど。

渡辺:いつ頃から街の景色は大きく変わりましたか。

ナイル:一番変わったのは東京オリンピックです。
 30年代に入った頃だったかな。徐々に街が変わり始めてその後、東京オリンピックが開催された。

渡辺:歌舞伎座が立ち上がったのはいつ頃ですか。

ナイル:歌舞伎座がオープンしたのは昭和25年です。
 うちの店が24年ですから、うちは歌舞伎座より1年先輩。

渡辺:役者さんなんかもお店に食べにこられていましたか。

銀座ナイルレストラン  オーナー G.M.ナイル
銀座ナイルレストラン
オーナー G.M.ナイル
1944年8月生まれ。
インド独立運動家のA.M.ナイル氏の次男として誕生。
東京農業大学畜産学科を卒業後、父ナイルが銀座に開いた日本初のインド料理専門店「ナイルレストラン」で働きはじめる。
レストランオーナー以外でも特に警察関係からの信頼は厚く、全国各地の警察組織での講演は数多い。「警察好き」としても知られ都内に個人の「警察資料館」を所有している。
一方、その明るいキャラクターでテレビ・ラジオ・雑誌など多方面で活躍中。

ナイル:そうですね。軍人さんがメーンでしたが、軍人さん以外のお客様もいらっしゃいました。当時来ていた若手の役者はずいぶんお年寄りになったけれど、中村芝翫さんなんかもうちのお得意さんでしたよ。

渡辺:商売をされていて、雰囲気が変わったなという時代の変化はありましたか。

ナイル:商売の雰囲気は変わらないけれど、バーンと変わったのは「1970年のこんにちは」ですね。
 要するに日本が完全にあれで復興してきた。銀座はその復興のシンボルのひとつでもあったんです。だから僕が非常に残念だったのは去年の3月の大震災。あのとき電気をずっと消していたのは銀座なんです。あれはよくなかったと感じています。

渡辺:逆のことをしてしまったんですね。

ナイル:そうなんです。何で復興を邪魔するようなことをしたのか。最後まで消していたのか、何万もの人が亡くなったし原発の問題もあるから、当然自粛しなければいけないけれど、大東亜戦争後も流行歌などが出てきてどんどん復興していった。震災の後、電気を消して音楽を消して、すべて逆をやってしまった。しかし、それに気がついて新宿、池袋、渋谷なんかはみんなパッと電気を点け始めた。しかし銀座は長かったですね。

渡辺:やはり銀座は絶えず元気な人の街でいないといけないですね。人々に夢を与える場所で、その夢の発信地が銀座であると。

ナイル:そうですよ。それが銀座の役目であり銀座の価値なんです。それをみんながよってたかって首を絞めてはいけないです。銀座の商店の首を絞めたら、日本全国の商店の首が締まってしまうんです。
 そのぐらい銀座は日本全国の商店街のリーダーであり、あこがれであり、そして模範であるんです。

感じる力

渡辺:ナイルさんはバブル時代も経験されていますが、当時はいかがでしたか。

ナイル:バブルの頃は凄かった。こと銀座に関しては異常でしたよ。僕は銀座のあちこちのクラブに行くのが大好きなんです。もうお金は銀座でしか使ったことがないくらい銀座のクラブが好きだった。
 バブルの最中は20代の若いサラリーマンが銀座のクラブに来て、普段飲んだことのないような高価なお酒をパカパカ飲んでいるわけ。それを見ていて僕はおかしいと思った。やはり人間には身分相応というものがあって、それを超えていたのがバブルです。
 その後、多数の会社や店が大変なことになったけれど、僕が完全にバブルを乗り切れたのは、バブルの時も本業にだけ注力したからなんです。不動産、穀物、株、投資と散々誘われましたがそれを全て断ったんです。その時に「ナイルはバカだよ、やれば儲かるのに」と言った人がみんな駄目になってしまった。

渡辺:それは何故やらなかったんですか。肌感覚でおかしいと思ったのか、それとも誰かの教えなどがあったんですか。

ナイル:何となく肌で感じていたのかなと思います。だって異常ですよ、あの景気は。忘れもしません、僕が銀座で飲んでいると、もう12時半、1時になったらタクシーは2時間待っても来ないんです。そんなばかなことはない。あれだけ都内にタクシーが走っているのに・・・。

渡辺:そうですよね。でも、それでもおかしいと思わない人が当然いたわけですよね。

ナイル:僕のように「絶対におかしい」と思った人間は今もみんな生き残っていますね。

渡辺:それは毎日ご商売をなさっていたからですか。

ナイル:それもありました。確かにあの頃は儲かったし僕は当時、銀座、池袋、恵比寿に店を持っていたんです。よく女房と2人で店の売り上げを持って、食事して帰ったんですね。その一方で、何でおれはこんなに儲かるんだ、何でこんなに金持ちになったんだと「おかしい」と感じている自分がいました。

渡辺:普通じゃないと感じて、それでそういうものには手を出さなかったんですね。
 銀座なんかで飲んでいらして、例えば銀座の女性、ホステスさんも変わりましたか。

ナイル:それが偉いという訳ではないけれど、昔、銀座には日経新聞を読んでからお店に出てくるようなホステスさんがたくさんいましたが、今は少ないですね。

渡辺:そうですか。
 銀座のホステスさんには「さすが銀座ね」と言われる方が多くいらっしゃったようですね。もちろん、見栄えだけではなくて。

ナイル:見栄えだけじゃない、知識や情報が豊富な人ですね。見栄えがいい人は他にもいっぱいいます。でも、昔よりは少ないですが今もまだ残っていますよ。年齢に関係なく若い子にもいます。

渡辺:やはりそういう子でも、その店のママさんや社長さんなど、教える人がいないとなかなか難しいのかなと思います。

ナイル:そうですね。要するに人間は自分から学ぼうというときはやっぱり若い子は上から教わって初めてなんです。その教える人がいなくなってしまったのは、僕が遊んでいた時代に教えていた人たちがもう全部リタイアしていていないんです。
 そうすると次は、当時教わった子がそれを教える立場になっているんだけど、教えるところまで育っていなかったんだろうね。だから教える人がいない。

渡辺:これも今の話につながってくるのですが、よくいろいろな方が街から番頭さんが消えたとおっしゃるんですが、ナイルレストランさんには素晴らしい番頭さんがいらっしゃいますよね。

ナイルレストランの番頭 ラジャンさん
ナイルレストランの番頭
ラジャンさん

ナイル:はい。彼は「私はこの店の番頭です」と日本語で言います。彼のようなお店を任せられる番頭がいなくなりましたね。

渡辺:おやじさんと番頭さんというのはどういう関係ですか。

ナイル:やっぱりおやじはおやじで、これはもう絶対なんです。僕みたいにすごくアクの強い経営者になりますと、それをサポートする人が必要でそれが番頭さんなんです。おやじを立ててくれるようなね。うちはすごくいい関係ですよ。

渡辺:はたから見ていても素晴らしいです。
 たしか2カ月間ぐらい国に帰られるんですよね。

ナイル:そう。うちは1年置きに2カ月間全員が休暇なんです。
 その間の給料もしっかり払って、それで家族を連れて帰る飛行機代も全部会社持ち。

渡辺:すごいですね。それは、なかなかできることではないです。本当に尊敬します。
 そういうことをすることで、また従業員さんとの信頼関係が深まっていくんですね。もともとそれはどうして始められたんですか。

ナイル:これは私の父が社員への感謝の気持ちでそういう制度の基礎を作り、それを確立させたのが私です。

『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録(新版)』『銀座ナイルレストラン物語 』 日本で最も古く、最も成功したインド料理店 河合伸 訳 / 風涛社

水野仁輔 著 G.M.ナイル 語り /P-Vine Books

信頼を生み出す継続

渡辺:お父様からの教えで、今でもずっと守られていることはありますか。

ナイル:うちの父から教わったのは、「初志貫徹」。
 それからものを変えるな。余計なものに手を出すなとも言われていました。これは、僕もせがれに同じことを言っています。「おまえ、しっかりとした仕事をして同じものを出さなかったら死んでから化けて出るぞ」と。(笑)

渡辺:メニューもそうですよね。

ナイル:メニューも変わっていないです。
 例えばうちはコーヒーをやっていませんから紅茶でしょう。夏場はアイスティーが欲しいというお客様がいっぱいいるんです。僕のアイスティーはおいしくて大好評なんですが、いまだに出していない。

渡辺:出さない。それはなぜですか。

ナイル:なぜかといったらうちのおやじが出すなと言ったから。まだ亡くなって23年でしょう。40回忌過ぎたらいいかなと思っているんですがね。だからいまだにアイスティーは出していない。初志貫徹ですよ。

渡辺:よく商売が上手くいかなくなったり、もしくはずっと続けていると何か違うものに手を出したくなりますよね。

ナイル:それは新しいもので確かめようとするから。渡辺さんの商売だって、昔からスタイルは変わっていないでしょう。

渡辺:変わらないですね。
 しかし、何か新しいこともやりたくなりますよね。

ナイル:でも、それをやったら老舗ではなくなるわけです。例えばナイルレストラン一番の自慢は、肉屋さん、八百屋さん、クリーニング屋さん、酒屋さん、親子三代、四代ずっと変わっていないんです。

渡辺:業者の方がですか。

ナイル:そう。うちも現在、三代目。酒屋が四代目、肉屋は三代目、会計士の先生が親子二代という。だからうちが変わるとしたら、相手に何か不都合があった時、そうでないかぎりは変わらない。

渡辺:あえて変えないんですね。

ナイル:そうです。だからうちはサッポロビールを使い始めたら、63年間サッポロビール以外は置いたことがない。僕はキリンも大好きよ、自宅ではハイネケンを飲んでいる。でも、この店はサッポロしか出さない。日本酒は白鶴しか置かない。

渡辺:初志貫徹。  最初に決める時、その第一歩が大切になってきますね。

ナイル:これも同じ業者さんにお願いしてきたからこその話ですが。
 うちが今から十数年前に火事になった時のこと、消防車が来て鎮火して、もうこの先どうしようかと途方に暮れていた時、弁護士の先生、会計士の先生、建築会社の社長が来てくれて、さらに肉屋の若旦那、酒屋の若旦那が来てくれた。
 非常線が外れて中に入れるとなった時、肉屋と酒屋の若旦那がうちの店に入って、小切手帳、元伝票、はんこから売り上げの現金まで全部2人の若旦那が持って帰ったんです。

渡辺:やってくれていたんですか。

ナイル:僕はその時、もう憔悴しきっていてそこまで気が回っていなかったんです。
 翌朝、電話がかかってきて「社長、心配しないでください。全部我々が確保していますから」と。これはもう長年の付き合いがあってこその出来事です。はんこひとつ、小切手1枚なくならなかったんですから。

渡辺:本当の付き合いとはそういうものなんですね。

ナイル:僕が商売を続けていけるのはやはり業者さんあってなんです。
 例えばビールなんかは、今お願いしている酒屋さんでも、もう5円安く入れてくれるという新しい酒屋でも同じ品物が来るんです。だったら5円安く買えばいいかというと、それはそういう問題ではない。これはお互いの絆なんです。だからうちの善己(ナイルレストラン三代目)にも言っています「絶対業者を変えるな」と。
 彼はホテルニューオータニで今から十数年前に大結婚式をやったんですが、これは立派な結婚式だった。その時、高砂の隣のいいテーブルにはうちの業者さんたちに座ってもらったんです。
 彼らと我々がうまくタイアップしているからこそ、商いをやっていけるんです。商いは飽きてはいけないから商いと言うけれど、やっぱりその飽きてはいけない商いをできるのは業者さんあってなんです。よく「お客様あっての商売です」と言いますが、もちろんお客様がなければ商いはできないけれど、でもお客様に提供するものの元を提供してくれているのは業者さんです。壹番館さんが生地を断って仕立てるのと同じように、我々も素材を刻んで料理を作っているんです。やはりお互いに業者さんあっての商いなんです。僕はそういう意味で、業者さんを大事にするということに関しては徹底しています。

渡辺:そういう考え方はインドでも変わらないものですか。

ナイル:商売はインドも日本もこういうことに関しては、変わらないと思いますよ。
 だからこれは「ナイル家の家訓」だと思っています。おやじに言われたんです「業者を変えるようになったらおしまいだぞ」「従業員が変わったらおしまいだぞ」と。だからうちはロートルばかりで誰も辞めない。

渡辺:長くお勤めの方ばかりですよね。

ナイル:先日辞めた常務は、僕が小学校2年生の時からうちにいてくれましたが、親子三代に仕えてよかったと。そう言ってくれましたよ。

渡辺:素晴らしいことですね。そういうのは、やはり自然と善己さんにも伝わっていくものなのでしょうか。

ナイル:僕が彼に言っているのは、現状維持。「行け行けドンドン」は簡単なんです。多店舗化もそんなに難しくない。でもそれよりもっと大切なのは現状をいかに維持して守っていくかです。

渡辺:多店舗化で得るものと失うもの、両面あると思うんですが、それはどんなものなのでしょうか。

ナイル:例えば恵比寿の店をやっている時、お客様も付いてものすごくよかったんです。それがあるときちょっと事情があって「やめる」と宣言した、それから1週間ちょっとでやめたんです。うちの女房は言っていました「あなたは素晴らしい男だ。引き際をうまくサッとやったから、やけどしないでやめられた」と。「行け行けドンドン」は簡単だけど、難しいのは「引き際」なんです。

渡辺:なるほど。引くのは本当に難しいですね。だからまずは、現状を維持することに力を注ぐことなんですね。

ナイル:そう。お店をやっている社長さんの名刺を見ると裏に支店がずらっと書いてあるでしょう。あの人たちは意外とみんな苦しいんです。僕みたいに何もないのが一番強いです。

1949年の創業以来のナイルレストラン定番「ムルギーランチ」
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