銀座人インタビュー<第13弾>
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第13弾〉陶器から現代美術へ引き継がれる銀座愛
ギャラリー小柳 小柳敦子様

1852年創業より五代続いた老舗陶器店から、現代陶芸のギャラリーを経て現代美術へ。 しなやかな変化の中から見た商い、銀座のお話を伺いました。

陶舗小柳

渡辺:小柳さんは何代目になられるのですか。

小柳:私で六代目です。父は本当の銀座っ子で、五代目です。
 父方の祖母、四代目のおじい様のところにお嫁に来たおばあ様は、銀座五丁目の呉服屋のお嬢さまだったので、うちの父は本当に生粋の銀座人でそれをとても自慢していました。

渡辺:すごいですね!。お父様の頃はどのような陶器を扱っていらっしゃいましたか。

小柳:父は基本的に職人が好きでしたので、作家物やお茶のものは意図的に避けて、いわゆる食器、お料理のための器ですね。それも磁器が好きで、磁器の最高峰が清水ですから清水や九谷、有田、瀬戸、その辺りが中心でした。昔は、料亭や小料理屋、あとは当時はお屋敷が多くありましたので、お屋敷の奥様などがお客様でした。しかし近年、若い奥様に「ぬたって何ですか?」と聞かれたのが、店を閉じるきっかけになったようです。

渡辺:ガックリきてしまったと。

小柳:五代続いたけれど、もういいと思ったらしいです。「ぬたを知らない人を相手に商売をしたくない。時代は変わった。」と言っていました。

渡辺:小柳さんはお店のお手伝いはなさっていたのですか。

小柳:中学生のときから店に出ていました。
 料理は駄目ですが器は好きでした。何よりお客様と父とのやりとりが好きで、小料理屋や料亭のおかみさん、粋な板前さんなど、そういうお客様が多かったので皆さん私の憧れでした。

渡辺:お客様との会話ですね。

小柳:父はよく歌舞伎座帰りのお客様と楽しそうに芝居の話をしながら商売をしていました。また料理も好きで「この織部にぬたを入れたら旨いよ。」とか。父の作ってくれるだし巻きは絶品でした。

渡辺:会話もそうですが、非常に趣味性の高いお店ですね。

小柳:というのも、清水や九谷などですから、当時から価格も高いです。やはりそういうものを愛でるゆとりのある商売、あるいは、おうちだったり、家柄の方がお見えになりますから、文化度がとても高いですね。

渡辺:それに対応できないと、なかなか仕事になりませんね。

小柳:お互いにそうです。そういうのを楽しんで、「じゃあ、買いましょうか」というようになっていくひとつの商売のテクニックなのかもしれません。我々ギャラリーも同じです。

渡辺:今のギャラリーのご商売と器の商売は、確かに職種は違っていますが、接客などは割と通じるものがありそうですね。

小柳:似ていますね。趣味性が高いというか、やはりビジュアルの美しさを愛でるという精神は、おそらく器にしても同じです。私は器が好きですし、絵画や彫刻と同じことです。安いものを買おうとすれば、もっと安いものがたくさんある世界なわけですから。
 特に絵画・彫刻などは何の役にも立たないわけで、不要な人にとっては、一銭の価値もないわけです。そこで同じ価値観を共有する喜びで、ビジネスが成り立っているということでしょう。

陶舗時代の小柳商店 陶舗時代の小柳商店。
2階には丸の中に十の字を書いた
小柳のマークがあしらわれています。

アートの価値

渡辺:美術品は本当に好きで買われる方と、投資として購入される方もいらっしゃいますよね。

小柳:そうですね。もちろんわかってくださっている方のほうが嬉しいですが、ただ、うちに来られるお客様はバランス感覚の良い方が多くて、ある程度投資のような気持ちで買われる方でも、やはり自分の好きなものを選ばれます。ということは、よく勉強していらっしゃるということですね。

渡辺:なるほど。お客様もそうですか。

小柳:「何でもいいから値上がりするものをください」という人は、うちには幸いにもいらっしゃいません。「やはりこの人は最近人気だね」と言いながら、「僕はこの人はいいと思っているんだけど。やはりいいかな」と、ご自分の目を鍛えつつ、あるいはご自分の目を確かめながらお買いになります。

渡辺:びっくりするぐらい、この人の目は正しいというか、「あっ凄い」という方もいらっしゃいますよね。良作を見分ける目はどのようにして鍛えられていくのでしょうか。

小柳:やはり見て選ぶこと。お金を出して買うわけですから毎回が真剣勝負です。

渡辺:真剣勝負の積み重ねでしかないのですね。

小柳:そうです。「好き」「嫌い」と言っているうちはまだゆとりがあって、自分の中では分析しているという感じです。しかし、パッと見たときに「欲しい!」と思うことがありますが、それは本能的なもので理屈ではありません。本来は全く自分のテイストではないのに、何故か欲しいと思うものが時々現れます。例えば、マルレーネ・デュマスというペインターがいますが、基本的には私のラインには入ってこないタイプのペインティングですが、もう見た途端にガーンとやられてしてしまいました。

渡辺:一瞬ですか。

小柳:一瞬です。その感覚は大事にしています。そういうことはめったに起こりませんから。

渡辺:どこでの出会いでしたか。

小柳:一番初めの出会いは1992年にバーゼルのクンストハーレーという展覧会場です。コレクションを持たない展覧会場ですが、グループ展でマルレーネ・デュマスが210枚のドローイングを壁一面に貼っていて、全体の迫力もすごかったのですが、1枚1枚も印象的でうまく描けているだけではなくて、キャラクターがとても強烈でグッと惹き付けられました。

渡辺:単に技巧的なわけではないのですね。とにかく人と違っているとか、個性が豊かでないと、なかなか際立ってきませんね。これだけ長年にわたって、新しい作家や新しい作品が出てくるわけですから。

小柳:そうですね。新しいもの、古いものという言葉を我々はよく使いますが、これはとてもトリッキーで、少し時間が経つと「新しいのよ」と言っていたものがあっという間に古くなるし、「古いものなのよ」と言っていたものが、視点を少し変えることでとても新鮮に見えたりします。  もうほとんど裏返しの言葉です。相反する言葉のように見えますが、表裏一体のひとつの言葉ではないかと思うほどです。

現代美術ギャラリーとして

渡辺:現代美術のギャラリーになってからどのぐらいですか。

小柳:17年です。最初は父の陶舗の意思を継いで、現代陶芸のギャラリーをオープンしました。

渡辺:それは作家物ですか。

小柳:ええ。しかし、国内の作家さんはほとんどデパートの美術部とがっちり組んでいました。それで海外の陶芸をやろうかと思いましたが、海外の陶芸は日本とはまた傾向が全然違いますので、マーケットがどのぐらいあるのかしらという感じでした。
 当時私は、佐賀町エキジビットスペースで小池一子さんと共に現代美術を扱っていましたので、作家物でも伝統陶芸でもないそれこそ当時新しいといわれた造形としての作品に注目しました。彫刻ともオブジェとも言わない陶の新しい表現です。

渡辺:陶器ではないわけですね。それをやっていらしたころは、お幾つぐらいでしょうか。

小柳:それが30代です。
 30代で始めて、今のこの現代美術を始めたのは42歳ですからスタートが遅いのです。

渡辺:面白いですね。その切り換わりのきっかけはありますか。

小柳:大学を出てすぐ婦人画報社に入って編集の仕事を3年ぐらいしました。その後、突然思い立ってアメリカにデザインの勉強に行きました。それはなぜかと言うと、婦人画報の雑誌を作っているときに、取材をし、記事を書き、写真を選びますが、最後にレイアウトは誰かに任せなければいけないのです。レイアウトがもうひとつ自分にしっくりいかないので、自分でレイアウトまでやってみたい、と。それで3年間アメリカに行きました。親はもう絶対反対でしたが・・・。

渡辺:冗談じゃないと。

小柳:でも、思い立ったらもうやりたくて、それでこっそりお金を貯めて、先ず住まいとして女子寮に入居申し込みをしました。その女子寮に先に荷物を親に内緒でどんどん送り、金曜日に全部完了し、「来週からアメリカへ行くから」と両親に言ったのです。

渡辺:急に切り出したのですか!?びっくりしたでしょうね。

小柳:それはもう・・・。

渡辺:アメリカのどこでしたか。

小柳:最初はロスアンゼルスでした。76〜77年頃ですから、本当にまだのんきなものでした。しかし、そうは言っても親は心配だからたくさんの手紙が来るし、私も親に対して「勝手なことをしてごめんなさい」と、手紙で非常にいいコミュニケーションが取れました。当時はメールもありませんので、手紙のやりとりです。親と手紙のやりとりというのは、普通なかなかないでしょう。

渡辺:いいですね。面と向かうと恥ずかしくて話せないことも手紙だと伝えられたり。

小柳:特にうちの父親は典型的な下町ですから、「ありがとう」なんて絶対言いませんでした。

渡辺:それが手紙だと結構言葉になって。

小柳:そうです。「気を付けろよ」とか、もう涙が出てしまうぐらいでした。

渡辺:3年は長いですね。

小柳:そうですね。お金がなくなるまで居続けるという発想でしたから、3年間1度も帰りませんでした。

渡辺:それで日本に戻られて・・・。

小柳:いざ編集者に戻ろうと思ったら、もうアメリカでのんびりしてしまったので、忙殺必至の編集の仕事に戻るのが嫌になって、どうしようと思っていたところに小池一子さんと出会い、西武の堤さんと初代ワコール社長の塚本さん、このお二人を中心に文化的な事業の仕事をしていました。9年間ぐらいです。

渡辺:9年間ですか。すごいですね。

小柳:あの当時西武はいい展覧会をたくさん開催していました。デァギレフ、ジオ・ポンティ、マッキントッシュ、コメディア・デラルテ、ビスコンティなど、いわゆるマチス、ピカソでないデザインや建築や舞台ですね。

渡辺:プロがうなるようなものですね。

小柳:ちょうど面白いところです。9年間、非常にいい勉強をさせていただきました。

渡辺:特に当時は堤さんの周りに、そういうクリエーターの人がみんな集まりましたよね。そのメンバーは刺激になりますね。

小柳:ものすごい刺激でした。田中一光さんから三宅一生さん石岡瑛子さん、みんなあそこに集まっていました。
 私はその一番下っ端でチョコマカしていました(笑)。だけどやはり彼らの生の声や生の現場を体験できましたから、それはやはり時代の気分や時代の気配を「見る」訓練をさせて頂きました。

渡辺:そんな経験を活かして現代美術を始められたのですね。

小柳:ただ、肝心の美術はあまりやっていませんでした。要するに美術の本流、マチス、ピカソではなく、小池さんのしてきた事というのは、本流から少し外れたもっと広い意味での文化です。生活や社会との密着度がすごく強かったです。

渡辺:今の仕事でそのときの経験が生きていることは、どのようなことでしょう。

小柳:やはりたくさんのものを見ないと、そのものがどれだけユニークかというのは分からないということですね。例えば、見かけのユニークさではなくて作家本人の独自性というか、その作家の姿勢なり作家の作ろうとしている視点みたいなものが、きちんと独自性があるかどうか、これを見る目は鍛えられました。それが一番役に立っています。

渡辺:最初は作家の選び方などにも大いに反映されますよね。

小柳:私は美術史などをしっかり勉強していないのでマチス、ピカソ、セザンヌ辺りはもちろん美術の常識としてわかりますが、もう少し専門的な世界がありますでしょう。やはり美術史を研究しないとわからないような。

渡辺:文脈みたいなものですね。

小柳:そうです。そういう知識を得ていませんから、もう勘と目だけでやってきました。

渡辺:しかし、それだけの経験を積まれているわけですから。当てずっぽうの勘とは全然違いますね。独自の物差しという意味です。お茶碗を買い付けて選ぶのも一緒でしょうね。

小柳:ええ。父が圧倒的にユニークでしたから、こう言うのも何ですが、私は本当に父の性格そのままで女になったという感じです。性格から何から、生き方も100%父の影響です。
 父は陶器の選び方も少しひねくれていて、職人さんが茶碗に綺麗な網目を細かく付けたようなものは、難しいので職人技の見せどころなわけです。そうすると、綺麗に描かれた網目を見て、「これもいいけど、少し網破ってくれ」と頼むわけです。遊び心ですね。そういうようにして遊んだり、豪華なのは嫌いでしたので、職人さんがあしらった金をやめさせたり。スタイルがありました。

渡辺:洗練度ということですね。お父様の基準があって、そこに引っかからないと。それをお客様と共有できなくなった。「ぬたがわからない」と言われてしまうと、もうガクッときたのでしょうね。

小柳:きっとそうでしょうね。

小柳の系譜

渡辺:四代目と五代目というのは、また違っていましたか。

小柳:資料によると二代目がすごく傑物らしいです。「初代久兵衛が嘉永5年(1852年)に三十間堀に瀬戸物屋を開いたのに始まる」と。「小柳が銀座に出たのは明治初年で、当時は銀座一丁目付近は原っぱ同然のところであった。銀座に商店街を開くのに貢献したものの一人が小柳商店であった。」「小柳は二代目久三が傑物で、商人として大きな活躍をした。日本の陶磁器を外国に輸出したり、外国の商品を輸入したりして、日本品を海外に認識させ、三菱の岩崎弥太郎か銀座の小柳久三かといわれた時代もあったほどである。」と。びっくりしました。

渡辺:それは、すごいですね。

小柳:この二代目が明治15年に京橋勧工場というのを開設したらしいのですが、「小柳久三が銀座一丁目に建てた京橋勧工場は明治中期の花形勧工場で、この京橋勧工場の様子を書いた坂東三津五郎の〈馬糞のまち〉という文が、木村荘八編著の銀座界隈という本に出ている。」とあります。錦絵にも京橋勧工場が丸十になっています。

渡辺:驚きです。

小柳:「このころの錦絵に京橋勧工場が出ている。瓦屋根の2階建て間口9間で前に勧工場という大きな看板が出ている。向かって左の端には、大きな焼き物の火鉢や水がめが積みあげてある。柳並木と人力車が走っていて、通行人が多い。絵の題名は銀座界隈とある。富士山も2台の鉄道馬車も描いてある。丸の中に十の文字を書いた小柳のマークがあり、四隅に京橋勧工場と書いた旗が出ている。この位置は、今の小柳のとなりの三菱銀行になっている場所の角店である」と書いてあります。「いまの小柳は高級で気品のある茶碗と酒器を主とする落ち着いた陶器店で、いかにも銀座らしい高級商品の店である」。これが昭和50年の記事です。

渡辺:すごいです。小柳さんは創業100年目にお生まれになったのですね。

小柳:しかし、ギャラリーの仕事で老舗と威張っても、何の得もありません。父も老舗を振りかざすのが嫌いでした。というのは、「江戸っ子が江戸っ子と言わないのと同じだ」と。雑誌の老舗としての取材なども一切断っていましたね。

ギャラリー小柳 小柳 敦子
実践女子大学英文科卒業。
婦人画報社、キチン(小池一子主宰)勤務を経て、 1983年、佐賀町エキジビットスペースの立ち上げ、企画・運営に携わる。
1995年、銀座にギャラリー小柳を開廊。
ギャラリー小柳 小柳敦子