銀座人インタビュー<第17弾>
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第17弾〉伝統のフレンチとワインのあるべき姿
銀座エスコフィエ 平田之孝様

創業1950年、銀座の老舗フレンチとしてお客様に愛され続けるエスコフィエ。
ボージョレーの騎士(レ・コンパニョン・デュ・ボージョレー)、 ボルドーの騎士(コマンドリー・デュ・ポンタン)などを受賞され、 ワインの本来あるべき姿でお客様へ提供するために、グラスまで開発された平田之孝様。その探求心の強さには驚かされるばかりです。

銀座ブランド

渡辺:銀座の方に銀座の商い、商売を、それぞれご職業は別であっても共通する部分もありますので、いろいろお話をお伺いしています。

平田:老舗の方々のところを回っていらっしゃるのですか。

渡辺:基本的にはそうですが、外側から見た銀座ということで、写真家の篠山紀信先生、京都の染織家で人間国宝の志村ふくみ先生にもお話をお伺いいたしました。

平田:外部の方の意見も重要ですね。ただ、現在は銀座というブランドが先行している気がします。

渡辺:そうですね、特に最近はその傾向を強く感じます。

平田:残念なことに、老舗がだんだん減ってきて、新たなお店が進出してきて、銀座の良さが薄れてきている感じがします。やはり銀座は世界に冠たるブランドだと思うので、銀座ならではの街づくりが必要だと思います。

渡辺:街としての歴史がある銀座らしく伝統も新しさも感じることの出来る雰囲気の街づくりなど、銀座全体の問題として取り組む必要がありますね。

平田:ええ、これからは個々のお店が内面を充実させて力を蓄え、世界に発信していくチャンスでもあろうかと、例えば昨年10月のIMF開催を良い機会と捉えて、10・11日の2日間、全銀座会、銀座料飲組合などが力を合わせ、IMFで来日した外国人スタッフ向けに、銀座の食文化と日本のお酒を世界に発信すべく、銀座スターホールをお借りしてレセプションを行いました。

渡辺:私も茶道の野点に一役買いましたが、大成功だったと思います。

平田:いろいろな方にお聞きすると、その街の名店があれほど多く集まって一つのことができるというのは、やはり銀座だと、おっしゃっていました。

渡辺:他の街は違うのでしょうか。

平田:準備期間が短い中で、あれほどのことが出来たのも、統率力や行動力、ネットワークを備えた方々が多くいたから出来たと言えますし、銀実会や町会の活動の中で、良い意味での上下関係がありますから、良いと思ったことに対しては、それぞれ譲歩する姿勢があるのではないでしょうか。

渡辺:銀座の先輩、後輩の関係というのもなかなか良い面があるのですね。

平田:そうです。先輩たちは経験値も知識も豊富ですので、下の者から見ると銀座には尊敬に値する人達が綺羅星のごとくいらっしやいます。

渡辺:そういう見方もあるのですね。他の街は、上下関係も強くなく割と横並びなのかもしれよせんね。

平田:三笠会館の谷会長も「これほど協力しあえる街はめずらしいよ」とおっしゃっていました。ですからIMF以外にも、いろいろなイベントを打ち出す機会があるのではないかと思います。

渡辺:平田さんはお店に直接お出になりますよね。

平田:はい。

渡辺:最近気になるのは、現場に出られる経営者の方が、だんだん減ってきてしまって、少し寂しい気がしているんです。

銀座エスコフィエ  平田 之孝
銀座エスコフィエ 平田 之孝
1950年「エスコフィエ本店」創業、翌年1951年、本店創業者平田醇の長男として生をうける。
1993年「シュヴァリエ」太田悦信氏に師事、ワインの本来あるべき姿に出会う。
1998年 ヴィルフランシュにてボージョレーの騎士(レ・コンパニョン・デュ・ボージョレー)受賞。
2003年 CH.フェラン・セギュールにてボルドーの騎士(コマンドリー・デュ・ポンタン)受賞。

平田:店の規模にもよりますが、現場が好きということにつきます。
 現に、みかわやの渡仲さんや煉瓦亭の木田さんも出ておられます。お客様と直に接してお客様の喜んで下さる反応を肌で感じることが、楽しみなんですね。

渡辺:私も同感です。本当に面白いですし、店に立つことで様々な勉強をさせていただいています。

平田:それがやりがいでもあります。

渡辺:そんな中で、老舗が減ってきている現状をどう思われますか。

平田:長年続けてきていますが、これほど先の見えない経済状況は、今まで経験したことがありません。そんな状況の中でも業績を上げているお店はいくらでもありますが、老舗の性(サガ)でこだわりの中、ぶれた経営はしたくないというお店も多いと思います。
 しかし、その辺を頑なに守ると商売につながらないという面も否定できません。

渡辺:そのバランスですね。平田さんは、銀座のオーナー限定のワインセミナーを行ったと伺いましたが。

平田:銀座でフレンチを63年間営業させていただいて、その銀座への恩返しとして私の出来ることは何かと考えた答えが、オーナー限定のワインセミナーでした。
 「食」に関しては、私が口をはさむことなどはおこがましい程、銀座の名に相応しいお店の方々ばかりです。しかし、「飲」に関しては、食のレベルまで達していないように見受けられます。

渡辺:そのバランスは、重要ですね。

健全なワイン

平田:私のワインに対する基本概念は、まずワインが健全である、ということです。
 それはどういうことかと言うと、ワインで二日酔いするとひどいと、聞いたことや経験されたことがありますでしょう。それは、商社や店舗などワインを提供する側がそういう状態にして消費者に飲ませてしまっている、ということなのです。

渡辺:状態がよくないということですか。

平田:そうです。しかし、それはワインのせいではないんです。日本酒も蔵元で飲んだら美味しかったのに、おみやげに買ってきて、夏を越して日にちを置いて飲んだら美味しくなくなっていたという経験もあるかと思いますが、このように醸造酒というのはとても変質しやすい飲み物なのです。そこを理解して愛情を注いで購入管理しなければ、本来の姿の飲み物をお客様に提供できないことになります。

渡辺:日本でも何度かワインブームがありましたが、日本のワイン市場は広がっているのですか。

平田:最初は裾野を広げるべきであるということで、安く提供するために輸送船のコンテナの温度管理など経費を削減した。そこで熱ダメージを受けたコンディションの良くないワインが輸入されてしまう。ということは、おいしくない状態でお客様に提供しているので、何度かのワインブームが定着していないのではないかと思います。
 もちろん全てのワインがそうというわけではないのですが。

渡辺:なるほど。しかし、もったいない話ですね。
 早急に運搬方法や陳列方法を考えないと業界としてもダメージですね。

平田:ええ。エスコフィエに来て「よその店では飲めない。我々はどういうところでワインを買ったらいいのかな」と質問されるお客様もいらっしゃいます。

渡辺:どうしても今はインターネットなどの情報先行で、どのようなコンディションで運ばれたかということは関係なく、値段や銘柄で勝負になってしまっていますね。もう少し内容に踏み込んだ文化になってくると定着するのでしょうね。

平田:そうです。そうすると、日本のワイン業界は大したものだということになると思います。ワインはデリケートな生き物である、ということにもう少し感心が行くようになると豊かな文化が出来そうですね。
 そのためには、店側が健全かダメージか判断できる利き酒力を備えていなければなりません。その利き酒力を身に付けていただいたうえで、その健全なワインをいかにしてお客様に提供したら良いかという、仕上げ方と提供方法をセミナーのテーマにしました。

鮨青木 二代目 青木 利勝
 お陰様で、私個人としてもセミナーの内容を1冊の「ワインの神秘」として著書にまとめることが出来、そのうえ世界初のオールマイティー・グラス「樹」の開発という、ご褒美までいただきました。

日本のフレンチ

渡辺:最近、フレンチがまた流行してきていますが、料理に関して日本のフレンチはどうなのでしょうか、これは独特な世界の中でも評価されるものだと思うのですが。

平田:そうですね。今の流れとしたら、有名店にいたソムリエやシェフが独立して小さなお店を出して、評判を得ていますので、そういう新しい流れではないでしょうか。
 和食が見直されて、和食の技法をフレンチに取り入れたときに、フレンチにはない「旨味」という領域を兼ね備えたことが強みだと思います。「旨味」という概念が欧米にはありませんから。その辺に気づいたのでしょうね。

渡辺:なるほど。洋食とフランス料理、オーバーラップしながらも違うものですよね。

平田:日本に初めて本格フランス料理を持ち込んだのはサリー・ワイル氏という方です。

渡辺:ワイル氏以前はどのような料理だったのですか。

平田:例えばコース料理や大皿に盛ったものでしょう。
 エスコフィエというのは宮廷料理人だったわけですが、改革によって町場に出たときに庶民にも食べれらるようなフランス料理の形式を作り出した。ですから、フレンチの神様的存在の人なのですが、調理法はクラシックなんです。

渡辺:宮廷のものなんですね。

平田:そうです。言い方は悪いですが、フランスは内陸で日本のように新鮮な食材が手に入らないために、しっかりしたソースでカバーしていたと。うちはその流れを汲んでいますから、その伝統的なクラシックの調理法から抜け出せないというのが、足かせになっている部分もありますが、周りに我々のようなクラシックな料理を出すお店がが少なくなってきているので、希少派ではあります。

渡辺:こういう味を出せるお店は、もう本当に少ないのではないですかね。

平田:ただし、それをよしとしてくれる世代の方が、だんだん少なくなってきていますから難しい部分もあります。

渡辺:エスコフィエさんの歴史を少しお話しいただけますか。

平田:創立者の父が1933年、18才の時に横浜のホテル・ニューグランドに勤めました。その当時のシェフが先ほどお話ししたサリー・ワイル氏でした。
 父は独学でフランス語を勉強していたこともあり、18才にも関わらず通訳代わりにワイル氏の片腕となって働きました。出征中も士官の料理人として可愛がられたそうです。
 戦後もニュー・グランドに戻り、腕を磨き銀座ですでに洋食惣菜で成功していた、やはりニュー・グランド出身のみかわやの渡仲さんの後を追って、1948年に銀座に出てきて3丁目で洋食惣菜を始めました。

渡辺:お惣菜ですか。

平田:そうなんです。洋食惣菜ですから、とんかつ、コロッケ、ハンバーグなど、一時は統制がありましたから、つばめグリルさんがうちにとんかつを注文するわけです。つばめグリルさんはお皿にキャベツの千切りを盛って、うちのとんかつをお客さんに出していた時代もありました。

渡辺:そういう連携というのも、戦後ならではというのもあると思いますが銀座の街の人情が見える部分ですね。

平田:そうですね。その後、1950年に今の5丁目に地所を買い、エスコフィエを開店いたしました。
 開店当初から、壹番館様にはご愛顧いただいておりました。おじい様は、特に仔牛の挽肉のステーキがお好きで、全改装に伴いメニューから外した時には「あれは、エスコフィエの看板メニューなんだから、外してはダメだ!」と、叱られまして、メニューに再度戻したという思い出もあります。(笑)

渡辺:そうなんですか。(笑)
 本当に長いお付き合いをさせていただいております。

平田:長いお付き合いというと、帝国ホテルの宝石の植田商店さんです。エスコフィエのオープン初日が雪だったせいか、お客様がゼロ。そこで、母が帝国ホテルのレセプションに勤めていた関係もあり、当時の植田社長にお願いに行ったところその足でご来店いただき、その日以降も毎日足を運んでくださったそうです。

渡辺:本当ですか、それはすごい。素敵なお話ですね。

平田:はい。このように代が変わられてもご愛顧してくださるお客様がいらっしゃるので、大変ありがたいことです。

オーギュスト・エスコフィエ
(1846-1935)
伝統的な料理法を見直し、現代フランス料理の基礎を確立した偉大なシェフ。 調理場の近代化や料理人の地位と質の向上を図り、 フランス料理バイブルともいわれる『ル・ギード・キュリネール』の著者でもある。
鮨  青木