銀座人インタビュー<第18弾>
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第18弾〉銀座、六本木で見てきた50年
六本木 比呂 俊藤 正弘様

時代とともに急速に時間が流れる六本木において、常に変わらぬ居心地の良さを提供してくださる店「比呂」。今回お話を伺ったのは、その「比呂」の店主である、俊藤正弘様。
京都と東京を飛行機で行き来し、「空飛ぶマダム」として有名であった上羽秀さんの店であり、小説や映画のモデルにもなった銀座のバー「おそめ」。
その「おそめ」に勤めていた7年間のことなども交え、いろいろなお話を伺いました。
ぜひ、ご一読ください。

おそめ

六本木「比呂」  俊藤 正弘
六本木「比呂」 俊藤 正弘
お父様は東映の敏腕プロデューサー故・俊藤浩滋氏。
かつて文士や政治家など多くの著名人が集まった、銀座のバー「おそめ」に7年勤めた後、六本木にて「比呂」を開店。
「比呂」の名付け親はバー「おそめ」のママであり俊藤さんのお義母様でもある、上羽秀(おそめ)さん。

渡辺:俊藤さんはご自分のお店を始められる前に、小説「夜の蝶」のモデルにもなったバー「おそめ」で働いていらっしゃいましたが、当時の様子はいかがでしたか。

俊藤:僕が「おそめ」を卒業したのは今から43年前。そのころのお客さんが、新ちゃんのおじいさんの實さん、保さん、初代のぜん屋さん。
 タモチータ(保さん)には結婚祝いでタキシード作ってもらった。

渡辺:素晴らしいですね!保さんは優しくていい方でしたね。

俊藤:タモチータはダンスが得意だった。

渡辺:野球もうまかったらしいですよ。

俊藤:實さんは、若いころから車の運転が出来た。

渡辺:そうなんです、だから4回も戦争にとられて。
 お店では、うちのじいさんは、女性にあまりもてなかったんじゃないですか。おっかない顔しているし。

俊藤:ひげがよく似合って格好よかった。トレードマークの眼鏡と葉巻、いつも帽子をかぶってコートを着て渋かった。それに絵も上手かったよね。タモチータも渋かった、2人で葉巻吸ってね。
 あのころ、ステッキついて来るのは東京温泉の許斐さん。羽織袴でステッキついて「おそめ」に来て、二つに切ったメロンにブランデー入れてスプーンで食べてた。あとは東海大の総長の松前さん。

渡辺:松前さんもいらしていたんですか。

俊藤:ステッキついて羽織袴だった。

渡辺:かっこいいですね。
 そのころ、お店の女性は着物だったんですか。

俊藤:「おそめ」はほとんど着物だったね。ドレスの子もいたけどママが着物だったからね。
 きれいな人だったよ。東京の男の人は鼻の下が長くなる(笑)。

渡辺:そんなに綺麗な方だったんですか。

俊藤:それはそれは綺麗だった。色白、黒髪でね。
 ママがJC(日本青年会議所)勘定で安くしてあげてたから、JCの人たちもよく来た。日興証券の遠山直道さん、今、ウシオ電機の会長の牛尾治朗さん。他には今の坂田藤十郎さん、扇千景さんもまだ国会議員になっていなくて「おそめ」に来てみんなと一緒に飲んでた。

渡辺:坂田さんはめちゃめちゃもてたらしいですね。

俊藤:そうだね。でも、新ちゃんほどでもないよ(笑)。そのころは、京都イセトーの小谷さんや千家さんもJCだった。

渡辺:裏千家ですか。

俊藤:今のお父さん。

渡辺:十五代のお家元ですね。

俊藤:東京では、繊維問屋の横山町の宮入さんが東京の理事長だった。
 他に「おそめ」のお客さんでは、そのころはノーベル賞をもらった川端康成さん、大佛次郎さん、白洲次郎さん。当時大蔵大臣だった田中角栄さんも来ていた。

渡辺:田中角栄さんも来てたんですか。そういうときは1人で来るんですか。

俊藤:1人だったね。陣笠の人たちは、みんな赤坂の料亭で飲んでたでしょう。後に総理大臣になった宇野宗佑さんも1人で来てた。

渡辺:今は大臣と隣り合わせで飲むことなんてありませんよね。

俊藤:今の銀座はわからないけどね。「おそめ」はバンドが入っていて、ピアノ、ギター、あとドラムがあったのかな。ジョン・ウェインが来たときに、駅馬車したらバンドの人に1万円ずつ置いて「サンキュー」って言って喜んで帰ったらしいよ。

渡辺:「おそめ」は、どれぐらいの広さだったんですか。

俊藤:25坪ぐらいあったね。カウンターが大きくて、席があって。實さんと保さんが一緒に葉巻吸って、カウンターで飲んでた。斉藤さんがロスコってあだ名だった、懐かしいよね。
 4月29日の祭日には新橋演舞場で「くらま会」があって、みんな出ていたよ。そのころサンモトヤマの社長が長唄やっていたね。

渡辺:「おそめ」のママも出ていたんですか。

俊藤:出たよ。ママは踊りでやったんじゃないかな、尾上流の名取だったから。

渡辺:「おそめ」で普通の人の勘定は、いくらぐらいだったんですか。

俊藤: 1万円〜1万5000円、そのぐらいじゃないかな。
 そんなに高くなかった。若い女の子は2〜3人くらいだったしね。ママは“空飛ぶマダム”で有名で、週の前半は京都、後半は東京と2つの店を行き来していた。
 そのころ「ムーンライト」という深夜便があって、深夜2時ぐらいに大阪着の飛行機あったから。

渡辺:他にも銀座にバーはありましたか。

俊藤:たくさんあったけれど、「エスポワール」と「おそめ」は特に有名だった。

渡辺:どうしてその2つが飛び抜けて有名だったんですか。

俊藤:小説のモデルにもなったし、ママは京都ですでに有名で、「エスポワール」は「おそめ」が京都から出てくる前から銀座で有名な店だった。その後は、「ラ・モール」とかかな。

渡辺:「ラ・モール」「シャングリラ」、クラブですよね。そういう店は若い子がいたんですか。

俊藤:いた。それを売りにしている店もあったからね。あとは「おそめ」の出身の女給が始めた「眉」。

渡辺:そのころ山口洋子さんの「姫」はなかったんですか。

俊藤:もう「姫」も、田村順子さんの「順子」もあったと思う。
 「おそめ」「エスポワール」の後は、「シャングリラ」「ラ・モール」という店が出てきて、同じ頃に「姫」や「順子」が出てきたんじゃないかな。

渡辺:同時に、キャバレーもありましたよね。

俊藤:「うるわし」や今の博品館のところにあった「ハリウッド」だね。

渡辺:「おそめ」京都から銀座に出て来た当初は、いろいろやりづらかったのではないですか。

俊藤:銀座に出てくる前、ママは京都四条河原町で小さい店をやっていて、そこに秋山庄太郎さんや千田是也さんのご兄弟で、ダンサー・振付師の伊藤道郎さん、舞台装飾家の伊藤熹朔さんが来てたの。そこで伊藤道郎さんが、“東京にも「おそめ」のような店が欲しい。銀座に店を出したらどうだ”と勧められて、銀座に店を出した。
 だからママは京都の他に銀座にも店を出した。そこでいろいろと伊藤さんが面倒を見てくれたみたいだね。東京の人から見たら関西の商売敵だったでしょう。

渡辺:しかし、とても流行ったんですよね。

俊藤:だって京都弁だもん。東京の人は京都弁にはやっぱり。

渡辺:弱いですよね。(笑)  そのとき、ママはおいくつぐらいだったんですか。

俊藤:30代前半じゃないかな。日本髪の似合う京女だったね。

銀座に「おそめ」が開店した昭和30年頃の銀座の街並み。
銀座に「おそめ」が開店した昭和30年頃の銀座の街並み。

秀さん(おそめママ)

渡辺:秀さんは芸妓さんからですよね。元々は京都のお生まれで。

俊藤:そう。京都の人だったんだけど、僕の親父がちょっかい出してママの人生狂っちゃった。
 東京に進出してからは、お互いに持ちつ持たれつ「おそめ」をやっていて、しばらくしておやじが映画プロデューサーで花が咲いた。最後はおやじが癌で亡くなって、ママはあまりにもおやじに惚れたんでショックが大きくてね。
 日本そばとオールドパーが大好きな人だった。

渡辺:水割りにして。

俊藤:いや、ロックだったよ。

渡辺:女性でロックで飲むんですか。いさましいですね。

俊藤:いつもハンドバックにオールドパーの小瓶が入っていてね、飲み屋行ったらそれをこっそり出して飲んでたよ。オールドパーが本当に好きなの。
 2月3日の節分に“おばけ”をやるでしょ。

渡辺:新橋の料亭で芸者さんがやるんですよね。

俊藤:昔は違ってお客さんも店でおばけやってたんだよ。

渡辺:お客様も仮装したんですか。面白いですね。

俊藤:だからママも祇園から衣装係で呼んでやったの。みんな貸し衣装借りて殿様になったりとか面白かったよ。

渡辺:仕事をやめられたのはいつごろなんですか。

俊藤:ママは、30〜40年ぐらい銀座にいたんじゃないかな。
 お店を閉めたのは、僕がやめてから10年ぐらい。だから昭和53年までやったかな、その後は家を建てて京都に戻ったよ。

渡辺:ご自宅に能舞台があったと聞きました。

俊藤:そう。能舞台を1億円ぐらいかけて作った、凝ってるよね。

渡辺:すごいですね。

俊藤:能舞台だけで1億円だもん。

渡辺:ご自宅の中にあるんですか。

俊藤:そう、10億円かけて家を建てた。最上階に清水を向いてサウナがあったんだよ。結局、おやじが亡くなって手放してしまったけれどね。

銀座に「おそめ」が開店した昭和30年頃の銀座の街並み。
秀(おそめ)さんについては新潮文庫「おそめ」に詳しい。 石井妙子 著 / 新潮文庫