時代とともに急速に時間が流れる六本木において、常に変わらぬ居心地の良さを提供してくださる店「比呂」。今回お話を伺ったのは、その「比呂」の店主である、俊藤正弘様。
京都と東京を飛行機で行き来し、「空飛ぶマダム」として有名であった上羽秀さんの店であり、小説や映画のモデルにもなった銀座のバー「おそめ」。
その「おそめ」に勤めていた7年間のことなども交え、いろいろなお話を伺いました。
ぜひ、ご一読ください。
渡辺:俊藤さんはご自分のお店を始められる前に、小説「夜の蝶」のモデルにもなったバー「おそめ」で働いていらっしゃいましたが、当時の様子はいかがでしたか。
俊藤:僕が「おそめ」を卒業したのは今から43年前。そのころのお客さんが、新ちゃんのおじいさんの實さん、保さん、初代のぜん屋さん。
タモチータ(保さん)には結婚祝いでタキシード作ってもらった。
渡辺:素晴らしいですね!保さんは優しくていい方でしたね。
俊藤:タモチータはダンスが得意だった。
渡辺:野球もうまかったらしいですよ。
俊藤:實さんは、若いころから車の運転が出来た。
渡辺:そうなんです、だから4回も戦争にとられて。
お店では、うちのじいさんは、女性にあまりもてなかったんじゃないですか。おっかない顔しているし。
俊藤:ひげがよく似合って格好よかった。トレードマークの眼鏡と葉巻、いつも帽子をかぶってコートを着て渋かった。それに絵も上手かったよね。タモチータも渋かった、2人で葉巻吸ってね。
あのころ、ステッキついて来るのは東京温泉の許斐さん。羽織袴でステッキついて「おそめ」に来て、二つに切ったメロンにブランデー入れてスプーンで食べてた。あとは東海大の総長の松前さん。
渡辺:松前さんもいらしていたんですか。
俊藤:ステッキついて羽織袴だった。
渡辺:かっこいいですね。
そのころ、お店の女性は着物だったんですか。
俊藤:「おそめ」はほとんど着物だったね。ドレスの子もいたけどママが着物だったからね。
きれいな人だったよ。東京の男の人は鼻の下が長くなる(笑)。
渡辺:そんなに綺麗な方だったんですか。
俊藤:それはそれは綺麗だった。色白、黒髪でね。
ママがJC(日本青年会議所)勘定で安くしてあげてたから、JCの人たちもよく来た。日興証券の遠山直道さん、今、ウシオ電機の会長の牛尾治朗さん。他には今の坂田藤十郎さん、扇千景さんもまだ国会議員になっていなくて「おそめ」に来てみんなと一緒に飲んでた。
渡辺:坂田さんはめちゃめちゃもてたらしいですね。
俊藤:そうだね。でも、新ちゃんほどでもないよ(笑)。そのころは、京都イセトーの小谷さんや千家さんもJCだった。
渡辺:裏千家ですか。
俊藤:今のお父さん。
渡辺:十五代のお家元ですね。
俊藤:東京では、繊維問屋の横山町の宮入さんが東京の理事長だった。
他に「おそめ」のお客さんでは、そのころはノーベル賞をもらった川端康成さん、大佛次郎さん、白洲次郎さん。当時大蔵大臣だった田中角栄さんも来ていた。
渡辺:田中角栄さんも来てたんですか。そういうときは1人で来るんですか。
俊藤:1人だったね。陣笠の人たちは、みんな赤坂の料亭で飲んでたでしょう。後に総理大臣になった宇野宗佑さんも1人で来てた。
渡辺:今は大臣と隣り合わせで飲むことなんてありませんよね。
俊藤:今の銀座はわからないけどね。「おそめ」はバンドが入っていて、ピアノ、ギター、あとドラムがあったのかな。ジョン・ウェインが来たときに、駅馬車したらバンドの人に1万円ずつ置いて「サンキュー」って言って喜んで帰ったらしいよ。
渡辺:「おそめ」は、どれぐらいの広さだったんですか。
俊藤:25坪ぐらいあったね。カウンターが大きくて、席があって。實さんと保さんが一緒に葉巻吸って、カウンターで飲んでた。斉藤さんがロスコってあだ名だった、懐かしいよね。
4月29日の祭日には新橋演舞場で「くらま会」があって、みんな出ていたよ。そのころサンモトヤマの社長が長唄やっていたね。
渡辺:「おそめ」のママも出ていたんですか。
俊藤:出たよ。ママは踊りでやったんじゃないかな、尾上流の名取だったから。
渡辺:「おそめ」で普通の人の勘定は、いくらぐらいだったんですか。
俊藤: 1万円〜1万5000円、そのぐらいじゃないかな。
そんなに高くなかった。若い女の子は2〜3人くらいだったしね。ママは“空飛ぶマダム”で有名で、週の前半は京都、後半は東京と2つの店を行き来していた。
そのころ「ムーンライト」という深夜便があって、深夜2時ぐらいに大阪着の飛行機あったから。
渡辺:他にも銀座にバーはありましたか。
俊藤:たくさんあったけれど、「エスポワール」と「おそめ」は特に有名だった。
渡辺:どうしてその2つが飛び抜けて有名だったんですか。
俊藤:小説のモデルにもなったし、ママは京都ですでに有名で、「エスポワール」は「おそめ」が京都から出てくる前から銀座で有名な店だった。その後は、「ラ・モール」とかかな。
渡辺:「ラ・モール」「シャングリラ」、クラブですよね。そういう店は若い子がいたんですか。
俊藤:いた。それを売りにしている店もあったからね。あとは「おそめ」の出身の女給が始めた「眉」。
渡辺:そのころ山口洋子さんの「姫」はなかったんですか。
俊藤:もう「姫」も、田村順子さんの「順子」もあったと思う。
「おそめ」「エスポワール」の後は、「シャングリラ」「ラ・モール」という店が出てきて、同じ頃に「姫」や「順子」が出てきたんじゃないかな。
渡辺:同時に、キャバレーもありましたよね。
俊藤:「うるわし」や今の博品館のところにあった「ハリウッド」だね。
渡辺:「おそめ」京都から銀座に出て来た当初は、いろいろやりづらかったのではないですか。
俊藤:銀座に出てくる前、ママは京都四条河原町で小さい店をやっていて、そこに秋山庄太郎さんや千田是也さんのご兄弟で、ダンサー・振付師の伊藤道郎さん、舞台装飾家の伊藤熹朔さんが来てたの。そこで伊藤道郎さんが、“東京にも「おそめ」のような店が欲しい。銀座に店を出したらどうだ”と勧められて、銀座に店を出した。
だからママは京都の他に銀座にも店を出した。そこでいろいろと伊藤さんが面倒を見てくれたみたいだね。東京の人から見たら関西の商売敵だったでしょう。
渡辺:しかし、とても流行ったんですよね。
俊藤:だって京都弁だもん。東京の人は京都弁にはやっぱり。
渡辺:弱いですよね。(笑) そのとき、ママはおいくつぐらいだったんですか。
俊藤:30代前半じゃないかな。日本髪の似合う京女だったね。
渡辺:秀さんは芸妓さんからですよね。元々は京都のお生まれで。
俊藤:そう。京都の人だったんだけど、僕の親父がちょっかい出してママの人生狂っちゃった。
東京に進出してからは、お互いに持ちつ持たれつ「おそめ」をやっていて、しばらくしておやじが映画プロデューサーで花が咲いた。最後はおやじが癌で亡くなって、ママはあまりにもおやじに惚れたんでショックが大きくてね。
日本そばとオールドパーが大好きな人だった。
渡辺:水割りにして。
俊藤:いや、ロックだったよ。
渡辺:女性でロックで飲むんですか。いさましいですね。
俊藤:いつもハンドバックにオールドパーの小瓶が入っていてね、飲み屋行ったらそれをこっそり出して飲んでたよ。オールドパーが本当に好きなの。
2月3日の節分に“おばけ”をやるでしょ。
渡辺:新橋の料亭で芸者さんがやるんですよね。
俊藤:昔は違ってお客さんも店でおばけやってたんだよ。
渡辺:お客様も仮装したんですか。面白いですね。
俊藤:だからママも祇園から衣装係で呼んでやったの。みんな貸し衣装借りて殿様になったりとか面白かったよ。
渡辺:仕事をやめられたのはいつごろなんですか。
俊藤:ママは、30〜40年ぐらい銀座にいたんじゃないかな。
お店を閉めたのは、僕がやめてから10年ぐらい。だから昭和53年までやったかな、その後は家を建てて京都に戻ったよ。
渡辺:ご自宅に能舞台があったと聞きました。
俊藤:そう。能舞台を1億円ぐらいかけて作った、凝ってるよね。
渡辺:すごいですね。
俊藤:能舞台だけで1億円だもん。
渡辺:ご自宅の中にあるんですか。
俊藤:そう、10億円かけて家を建てた。最上階に清水を向いてサウナがあったんだよ。結局、おやじが亡くなって手放してしまったけれどね。