銀座人インタビュー〈第21弾〉
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第21弾〉人を支え、人に支えられ、繋がる
株式会社はせがわ 代表取締役社長 長谷川 房生様

昭和4年創業。仏壇・仏具の販売に始まり仏壇の自家製造、そして現在は文化財の保存修復までを手掛けられている株式会社はせがわ。
現社長の長谷川房生様そして社員の皆様にまで、創業者・長谷川才蔵様の努力と教えが脈々と受け継がれ続けている事には驚きを隠せません。

渡辺: この度は東京証券取引所に一部上場されたということで、誠におめでとうございます。

長谷川:ありがとうございます。一生に1回しかないから子どもたちが記念にスーツ作ったらどうかと、私たちがプレゼントするよということだったので、その申し出を断るわけにいかなくて。壹番館様で仕立てていただきました。

渡辺: そうですか。私どもも微力ながらお祝いのお手伝いをさせていただくことができて、大変光栄です。

長谷川:先日お店にお伺いして生地を選ばせていただいて、今日こうやって仕上がって着てみると、改めて生地の風合いの良さに大変驚きましたね。

渡辺: そうですか。

長谷川:とても気持ちが良い。やはりカシミアですね。薄いけれども柔らかい手触りがあって。
 とても着心地が良くて、仕立もやはりご立派で上手。こんなに気持ち良くしっくりと仕立てていただいたのは初めてですね。

渡辺: そうですか。お喜びいただけてなによりです。

長谷川:壹番館さんでずっと作っていらっしゃる方が羨ましいです。スーツはもう壹番館さん以外では作らないという方が多くいらっしゃるでしょう。別の店でお作りになったりしても結果としてやはり壹番館でないと駄目だとなるんでしょう。
 しかし、ありがたい縁で素敵なスーツに袖を通すことができて嬉しいです。

渡辺:爽やかで綺麗な藤色がとてもお似合いです。

はせがわの創業

渡辺: さて、このインタビューでは銀座にゆかりのある方々に商売にまつわる話などを伺っているのですが、はせがわ様が銀座に出られたのはいつ頃ですか。

長谷川:弊社が銀座に事務所を構えたのが昭和59年、店舗を出したのが平成14年です。
 銀座にいるとありがたいのは、自然と人が来て下さいます。これが銀座にいることの、ものすごい長所ですね。

渡辺: やはり色々な意味で注目度が高いですよね。

長谷川:はい。“銀座へ行きましょう”と言われる対象になる街なんですね。
 実際に行ってみて楽しい街ですし、ある意味では日本の文化のヘソのようなところでもありますからね。商業文化の周辺的な絵画もあり、歌舞伎座もあります。

渡辺: そうですね。芸術的環境も充実していますね。画廊の数は800以上ということです。はせがわ様は、お父様が創業されたのですか。

長谷川:はい、創業は父です。前の大恐慌の時、昭和4年1929年の株の大暴落の時です。

渡辺: 弊社の創業も1930年で、よくあの時代に創業したなと思いますね。あの頃の方というのは、皆さんパワーがありますね。

長谷川:しかし時代が時代、商いが厳しく行商をやってそれでも上手くいかなくて露天商に入りましてね。

渡辺: 当時もお仏壇なんですか。

長谷川:仏具類ですね。露天の場合は持ち運びが大変ですから、最初は仏具をやっています。

渡辺: なるほど。

長谷川:父は6歳で父親を10歳で母親を亡くしているんです。
 そんなこともあって丁稚奉公に出されたんですね。奉公先が隣町の商店街にある家具と仏壇のお店だったんです。

渡辺: そうですか。

長谷川:そこで商いを随分と学ばせていただいたようです。それと親戚が皆庄屋系なんです。ですから学問をするんですね、それで自分たちは両親がいないからもうそれは無理なんですけども、父なりに自分も従兄弟たちと同じように良くなりたいということで、丁稚奉公しながら勉強するんです。その中で一番感銘を受けたのが渋沢栄一さんの通信教育がありまして、「実業講習録」というものが全国の商業を志す皆さんにということで発刊されたんです。
 その中に「社会に対する責任」「実業家の第一に心がけるべきは信用」ということが書かれているんです。こと「信用」に関して父は親戚からも信用が一番だと教わるわけですけれども、それと同じことが書いてあったものですから、ものすごく傾注してこれを学んだようです。父は商いは正しくやらなければいけない。信用が一番、信用が本位だということを徹底していました。これが現在も私どものベースになっているんです。

渡辺: 厳しいお父様でいらっしゃいましたか。

長谷川:とても厳しかったです。小学校もろくに通うことができず、教育を受けたのが丁稚奉公時代と、その後は軍隊で教わるんです。ですので、私たち子どもにも軍隊調なんですよ。往復ビンタなんかよくやられていました。(笑)

渡辺: それは相当に厳しいお父様で。

長谷川:私の母は奄美大島出身なのですが、昭和28年にそれまでアメリカが統治していた奄美大島が日本に返還され、日本人の渡航が自由になり父と母は20年振りに母と姉妹のいる故郷に帰るわけです。

渡辺: それは大感激ですよね。

長谷川:その時に私も含め家族皆で行きました。私は小学校3年生になる春休みで記憶が薄いんですが、父は49才、母は40才でした。その旅行から父がコロッと変わっていきましてね、それまで往復ビンタで叩かれていたのが、しばらくして、突然叩かれなくなりました。
 その背景は、自分の妻とその母との情愛の通う姿を見て、改めて新鮮に自分の親が想像され、深い愛情に気付かされたからだと思います。それで自分が今いるのは、親が深い愛情で手をかけてくれたお陰なんだと。幼少期以来、知り得ることのなかった親の愛に目覚め、愛に包まれるわけなんです。

渡辺:その旅行でですね。

長谷川:その旅行の間、妻の母に対して、実母のように「お母さん」と呼べることに幸せを感じたんだと思います。それでもう義母を福岡にそのまま連れて帰ったんです。自分が母親から離れたくないんです。孝行がしたいんです。

渡辺:なるほど。それはそれはお父様にとって大きな出来事だったんですね。

長谷川:それからずっと父は、さまざまに親のことを考えたと思います。親の恩を思い、その愛に包まれ、涙しながら、孤独から解放され、安心した生き方になっていったと思います。その後の父は、しだいに周りの全てに対しても、お陰を感じ、「感謝」ということをしきりに口にするようになりました。朝6時半からのお寺の朝参りに行くようにもなりました。

渡辺:なるほど。最初は渋沢栄一さんの「道徳」というのが基本になっていて、そこにまた「愛情」というものが加わって。お父様に大きな影響を与えるんですね。

長谷川:はい。道徳は正しさということを言いますから、ある一面では厳しいんですね。自分自身もそれを徹底して守り抜いてきましたから。信用は1日で壊れるけれど、築くのには15年かかる、父は信用は15年と言っていました。
 そのぐらい信用については厳しくやってきたんですけども、一方周り全体に対してもやはり厳しかったんですね。

渡辺: 自分にも周りにも厳しかったと。

長谷川:そうです。ところが親の愛に気付かされてから、軽やかに努力をし続けるようになりました。しかも、その中に一貫して正しさというのが流れていました。正しさに愛情が加わったという感じですね。

渡辺: 周りの方は驚かれたのではないですか。随分急に変わられたから。

長谷川:本人はあまり口上手ではなかったので、急な変化は感じなかったんじゃないかと思いますけどね。私も父がどう変わったかとよくわかりませんが。非常に穏やかな父になっていきました。

渡辺: なるほど。奄美でお義母さんに会えたことがきっかけで、徐々に変わっていかれたんですね。

長谷川:父にとって50才頃は大転機でした。自分や周りの全てに対して、感じ方や考え方が変わっていきました。お寺参りに子どもの私たちも連れて行くようになり、加えてお仏壇も最高品に作り変えました。生きることを喜ぶ、非常にふくよかな人間になっていき、人から「あんたのとこのお父ちゃんは仏様よ」と言われるほどでした。

渡辺: それはよほど周りの方々にも感じさせる何かをお持ちだったのでしょう。
 お亡くなりになられたのは、お幾つだったんですか?

長谷川:75歳でした。癌でしたが、だからといって悔やむ姿を見たことは1回もないんです。

渡辺: 癌を告知されてもですか。

株式会社はせがわ 代表取締役社長 長谷川房生
株式会社はせがわ
代表取締役社長長谷川 房生
1946年11月 福岡県直方市に㈱はせがわの創業者
長谷川才蔵の次男として生まれる
1946年11月 福岡県直方市に㈱はせがわの創業者
1965年3月久留米大学附設高校卒業
1972年3月早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業
1972年4月富士ゼロックス入社
1974年5月㈱長谷川仏壇店入社 (現:㈱はせがわ)
1978年7月㈱長谷川仏壇製作所へ転籍
1984年1月㈱はせがわ再入社 専務取締役
2006年6月同取締役副社長
2007年6月同代表取締役副社長
2008年4月同代表取締役社長

長谷川:全く変わらなかった。「はあ、癌ですか」と、もうそれだけのことで。今は仕事があるから仕事をちゃんと果たしていこうと、それだけでしたね。癌だから苦しい、辛い、人生がどうなるかと心配したりなど、一切ありませんでした。ただ、淡々と同じように生きていただけですね。

渡辺: すごい方ですね。

長谷川:もう50歳の時に親の愛に包まれて以来、ある意味では生死を超えたのでしょうね。父が亡くなった時の話しなのですが、金庫からお寺さんの借用書が何枚も出てきまして。それは多分戦時中はもちろん戦後、軍隊から帰ってこられたりしてもまだ世の中貧しいですから大変だったんでしょう、困ったお寺さんに融通していたんですね。
 あのお寺もこのお寺もというぐらいありました。一方で父は困ったお寺があったら、お金を持って行っていました。建てかけて寄付が集らなくて途中で止まっているお寺があるんです。そういうお寺に私にちょっと連れて行けといって車に乗って出かけるんです、「この度はお寺のご普請、大変なご苦労があると思います。ちょっとお気持だけご普請のお役立ていただけたらと思って持参しましたので」って帰るんですよ。50万円ほど包んでいるんです。自分のポケットマネーで。

渡辺: 大変だろうなと思って少しでも役立ったらという思いで、でしょうか。なかなかできることではありませんよね。

長谷川:そうなんです。本当に自然な気持ちで行動しているんです。近所のお寺ですからもちろん当社には縁があるんですが、そんな父の人柄からか、近在のお寺が全部、はせがわファンになりました。

長谷川のしおり

長谷川:昭和31年頃に父は自分の思いを文章にして新聞折込チラシを入れました。  その中に先ず「親が子に対する愛情は変わりませんが、子が親に・・・」、親子の話が出てくるんですね。文明は変わってきたけども、親子の情愛は変わらない。「人は生まれ出たときに右にも左にも転ぶことができない。子どもから赤ん坊、両親が子どもを育てるため寝食を忘れたごとき働きと愛撫によりまして成長したことを深く思います」親の愛情ですよね。その次「親を思う心に勝る親心今日のおとづれ何と聞くらん」。世間では親から何も世話になっていないと言うけれども、実際は学校教育をさせてもらったらそれで十分じゃないかと。親は子育てに努力はしたけど、返せとは言わんじゃないかというようなこと。そして、「人は社会の恩を忘れずに、世間から笑われるな」と、こういうふうに子どもとして努めていくべきじゃないかと言っているわけですよね。そして、「人は誰でもいずれ年老いて亡くなって仏様になりますよ」と。「世間並びに仏様の恩を忘れずに、大恩に応えなければいけませんね」と。「日常人として正しい行いと」と、ここに「正しい行い」が出てきます。そして、「親・祖先・神仏・社会に報恩・感謝の念を心がけましょう。」ということで、ここできちっと「感謝・報恩」という言葉が出てくるわけですね。あとはお仏壇のことをずっと書いて、「お仏壇は感謝の礼を尽くすものであります。親の恩は海よりも深く山よりも高しと申されます。」と書いてあります。

渡辺: 素晴らしいですね。

長谷川:父はこの文章がちゃんと書けなくて、兄にももちろん文章はどうかということで訂正させました。姉にもいろいろ聞いていました。小学校4年〜5年の私にも「文章良いか?」と聞くんですよ。非常に謙虚に子どもたちに教えを請う姿勢を持っていましたね。
 父が公式に書き残した文章としては、これが最初です。

経営理念

長谷川:弊社には「はせがわのこころ」という経営の考えがあるんですが、これを社員と共有しています。「私たちは目に見えない大きな力に生み出され、生かされるいのちに感謝し受けつぎつないできた美しい日本の精神性を大切にし、心、いのち、人との間の豊かな関係を深めてまいります」と、はせがわ社員のベースとなる心構えが書いてあるんです。
 また「信用本位」「感謝・報恩」「よろこびの商い」という、要するに人生は喜びに生きるんだと。父は生涯商いでやってきましたので、その父の生き様なんですけども、父が求めたのは喜びの人生なんですね。父は死ぬまでお店の2階に住んでいまして、家を作らなかったんです。

渡辺: なるほど。商いが人生と一体になってそれが喜びになるわけですね。

長谷川:父は両親に早く死なれていますけれど人生は、やはり一生懸命努力して仕事すると楽しいわけですよね。成果が上がると気持が安楽になるでしょう、それが大きな喜びだったようですね。頑張る、成果が上がる、休む、というそのサイクルをとても大事にしていました。それが両親から離れて自分が生きていくうえで実感した1つの生き方だったんじゃないでしょうか。

渡辺: それを見つけられたんですよね。

長谷川:喜びの中に人間として生きることを本位としてモノに執着して、ガツガツするというあり方を超えた世界を持ったんでしょう。もちろん商いですから頑張りましたよ、それは競争もありますから。

渡辺: そうですね。

長谷川:ただ、それだけではなく、それを超えた「お陰様」という世界を持つわけです。そちら側の方が父にとってはるかに大きな世界で、抱かれた世界なんですね。

渡辺: 大事な世界なんですね。

長谷川:はい。日常の仕事はこの世を生きるという生業ですから、それはそれで精一杯頑張る、しかしそちら側に人生の究極的な満足を求めるという姿勢ではない、それを超えた世界へ行っていたと思います。

渡辺: 今はとかく世の中で、仕事は仕事、プライベートはプライベートと分ける風潮がありますが、お話を伺っているとそのようなことが一切ありませんね、完全に一体になっている。一生懸命働くことが、喜び、楽しみになってギャップがありませんね。
 お父様の接客で覚えていらっしゃることはありますか。

長谷川:品質を細かく説明していました。どうやって作られるか、どういう強さがあるか、あるいはどんなところに少し問題があるかなどを、丁寧に説明していました。父はどちらかというと職人型だったんです。
 お客様を口で酔わせるということではなくて、確かなことをお伝えして理解してもらって買っていただくというタイプです。

渡辺: 華やかな接客ではないんですね。

長谷川:そうです。むしろゴツゴツした接客ですね。正直さで信用されて買っていただくという。

渡辺: なるほど。嘘がない。一生懸命さと誠実さをお客様が感じ取るんですね。

長谷川:はい。しかもその商品を手に入れる過程でものすごく努力しているんです。調達にもとても努力した人でしたね。

渡辺: 材料にですか。

長谷川:材料、それから仏具類など細々したものを仕入れますよね。仕入れがとても細やかなんです。作り方や材料などいろいろ聞いて、自分でそれを確認して良いものを扱う、しかも値段は高くしない、安くすることもない。立派なものを扱っているんだから安くしてはいけない、安売り競争は絶対いけないという感じでした。

長谷川社長のお父様である、創業者の長谷川才蔵様が丁稚奉公しながらも勉強されたという「実業講習録」。
長谷川社長のお父様である、創業者の長谷川才蔵様が丁稚奉公しながらも勉強されたという「実業講習録」。

ものづくり

渡辺: ものづくりに対して、お父様と職人さんとの会話で何か覚えていらっしゃることはありますか。

長谷川:父は自分が職人の目を持っていましたから、職人さんを大事にしました。

渡辺: そうですか。

長谷川:職人の心がわかるんですね。腕も的確に見ていましたから、職人さんごとに材料を変えて支給するんです。この人にはこれ、この人にはこれと、全部価格が違うんです。お客様からの注文が安い場合に幾らでやってくれといったら、これはこの職人さんに材料はこれで。立派に仕上げて欲しいと注文を受ければそれなりの代金をいただいて、腕の良い人に材料も良いものをと。それも仏壇を作るのはものすごくたくさんのパーツが要るわけです。
 父は仏具類でも同じものを何軒もの問屋さんから仕入れていました。商品を見て値段を聞き、全部帳面をつけていました。その中で仕上げの良い商品を仕入れるんです。良い商品で値段の安いところから仕入れるわけです。悪いものは悪いものとして品質と値段を書いているんです。どうしてもそういうものじゃないと駄目だという人があるときは、それを仕入れるわけです。通常店で扱う商品は良い品物で安く提供して下さるところのを仕入れるということです。

渡辺: でもそれは面白いですね。この値段でないとどうしても買えないんだという方には、それなりの物をきちっとお渡しする。
 これは非常に面白いことですね。

長谷川:お客様に対してものすごく細やかなんですね。“やりません”という失礼なことはしない。

渡辺: ご都合に応じて対応するんですね。

長谷川:ある意味で父はプロデューサーであって、さらに小売商いをやっていたわけです。

渡辺: なるほど。ちょうど製造と商売と両方を見ながら。

長谷川:自分が商品を作ったり仕入れたりして、それでお客様に喜んでいただくことが最大の喜びだったんです。やはり孤独に育ったから、なおさらのことなんですよね。お客様を家族のように感じている部分もあったのではないでしょうか。

渡辺: 気持ちが繋がる。その喜びのためには努力を惜しまれなかったんですね。
 お母様もお店を手伝っていらしたのですか。

長谷川:母は伝票仕事なんかは、一切しませんでした。外回りしてお寺さんに行って酒を飲んだ人だから。(笑)

渡辺: 営業をされていたのですか。

長谷川:営業です。戦時中、お坊さんは戦争で応召していますのでお寺さんは奥さんたちが守っているんです。しかし、物はないし農業をしながらお寺をやっていたから大変だったんです。それでそういうお寺に母が三味線と一升瓶を提げてお伺いして、三味線弾いて踊りを踊って慰問して回ったんです。そういうことで、ものすごく恩に感じてくれている人が多いんです。