銀座人インタビュー〈第22弾〉
銀座にゆかりの深い「銀座人」たちに弊店渡辺新が様々なお話しを伺う対談シリーズ。普通では知ることのできない銀座人ならではの視点で見た、銀座話が満載です。

銀座人インタビュー〈第22弾〉満100歳 銀座でコーヒーと65年
カフェ・ド・ランブル 店主 関口 一郎様

銀座8丁目『珈琲だけの店』と書かれたオレンジ色の看板「カフェ・ド・ランブル」。
店主の関口一郎様は学生時代からコーヒーに興味を持ち、100歳になる今でも
お店で豆を焙煎する現役でいらっしゃいます。
美味しいコーヒーを淹れるために、銀座で商売を続けるために、
日々の研究が大切とおっしゃる力強い姿に、自分もまだまだと背筋が伸びる思いでした。

コーヒーとの出会い

渡辺:コーヒーは日本でも随分前から一般的だったのでしょうか。

関口:そうですね、明治時代にも多少入っていたと思います。蜀山人なんかは「苦くて飲むに堪えない」なんていうようなことを言っていたといいますから、遡ると明治になる前から入って来ていたんではないでしょうか。

渡辺:では、昭和の初めの頃にはカフェのようなものはたくさんあったんですか。

関口:ええ、かなりありましたよ。

渡辺:やはり銀座に多かったんですか?

関口:そうですね。その当時から不思議と銀座という場所には、ナンバーワンのお店や、よそでは絶対に真似のできないようなオリジナルの良いものを作っているお店が集中してたんですよ。たとえば帽子だったら「トラヤ」さん、「大黒屋」さん、それから壹番館さんの洋服など。出すとキリがないくらい立派なお店があります。コーヒーに関しては、戦争前にいわゆる有名だったお店は、8丁目の並木通りに「耕一路」という店があったんですよ。私は学生時分に黄バスでよく銀座に出て来たものです。

渡辺:「耕一路」のコーヒーを飲みに銀座に来られていたのですか?

関口:ええ。「耕一路」のコーヒーというのは、まず高いのでも有名でした。一番安いのが1円なんですよ。

渡辺:当時の1円はどれぐらいの感じですか。

関口:どうでしょう、タバコのゴールデンバットが7銭時分ですからね。

渡辺:おそばは1杯どれぐらいでしたか。

関口:大体同じぐらいじゃないですか、10銭止まりですね。

渡辺:では相当高いですね!そのコーヒーは。

関口:そうですよ。滅多に飲めないので、時々、同志を募って3人くらいで33銭ずつ出し合って1円のコーヒーを注文していましたね。わけを話して、カップを3つ借りて分けて飲んだ経験がありますね(笑)。

渡辺:なるほど。

関口:そんな時分に、今は教文館がある所に「ブラジルコーヒー宣伝本部」というのがあって、お店はやってなかったのだけれど、1丁目の角から2軒目ぐらいのところに、宣伝用に実際に飲ませてくれる「ブラジリエロ」という売店をやっていてね、そこが15銭。それから、その他にも小さいお店で有名なのは金春通りに「キューペル」というお店がありましたね。

渡辺:めずらしい名前ですね。

関口:ええ。キューペルというのは専門用語で坩堝ですね。金属を溶かしたりするときに使う炉というか、その固有名詞がキューペルというんだけど。店主の親父さんが最高冶金の方でね、定年になってだいぶ年をとってから店をやりだしたので、キューペルという名前をつけたわけですよ。ここがね、別においしいから有名だという意味ではなかったけど、変わった名前だし親父さんが具合といい何といい、乃木大将〈注:乃木希典=明治期の陸軍大将〉とそっくりな人でね。髭のそういうことでちょっと有名でしたね。

渡辺:他にはどんなお店が?

関口:名前はちょっと失念しましたけれど、コーヒーを飲ませるおいしい店が他にもありましたね。いずれにしても、銀座にはおいしくて有名なコーヒー店が何軒かありました。

渡辺:それでは学生時代から、コーヒーは研究されていたんですね。そもそも最初にコーヒーに興味を持たれたのはどういったきっかけだったんですか。学生さんにしてはずいぶん、お値段がかかるわけじゃないですか。

関口:コーヒーを飲んだのは、喫茶店というよりはむしろ「ミルクホール」で飲んだのが始まりですね。そのとき、いろいろな飲み物の中でコーヒーが一番自分に合ってるというか「おいしい」と感じて、興味を持ったんです。
 ですから有名なお店には、遠くても飲みに行きました。学生時分に試験勉強で夜中、勉強をしていると眠くなって、そんな眠くなったときにコーヒーを飲みたいと思っても、お店はやっていないですから飲めないでしょう。ですから自分で作ってみようと思ったんです。それで道具立てをして自分でコーヒーを作ってみたけれど、もう飲めたもんじゃない。

渡辺:全然ダメだったんですか。

関口:ええ。お店で飲むコーヒーは、お客さんに出すので吟味して、気をつけているから飲めないようなコーヒーは無かったんです。ところが自分で作ったコーヒーは、もう吐き出しそうになるくらいまずかったんですよ。

渡辺:それは何が悪かったんですか。豆ですか。

関口:それがね、同じコーヒーでありながらこれだけの差があるのはどうしてなんだろうと。これは研究してみる価値があるんじゃないか、というのがコーヒーにのめり込むきっかけだったんです。昔はオープンカウンターのような形式でなくて、奥の厨房でコーヒーを作って、できたものを客席へ持って来るというシステムでした。ですから喫茶店に行っても作っているところは見られないんですよ。

渡辺:なるほど。では、どうやってコーヒーの淹れ方を知ったのですか。

関口:おいしいと言われているお店へ行ったときに、どういうことなのかなといろいろ気をつけてみたんです。
 まず注文を受けるでしょう、そうするとしばらくして、厨房の中からガリガリガリガリ…とコーヒー豆を挽く音がするんです。その豆を挽く音がするお店はみんなおいしかったんです。だから、「なるほど、コーヒーは豆を挽いてからすぐに作らないとおいしいのができないんじゃないか」ということに気がついたんですね。

渡辺:なるほど、研究熱心ですね。

関口:それから次は第2段階で、おいしいと言われているお店へ、それこそ手土産を持って行ってお馴染みになって、そこのマスターに「実は私もコーヒーが好きで、コーヒーを自分で作ってみるんだけど、とても飲めたものじゃないから教えてくれないか」って申し入れをしたんですよ。すると、そういうお店はどこの店でも快く見せてくれたんですね。

渡辺:それは、意外ですね。

カフェ・ド・ランブル 店主 関口 一郎
カフェ・ド・ランブル
店主関口 一郎
1914年(大正3年)生まれ。早稲田大学理工学部卒業。
学生時代よりコーヒーの魅力にはまり研究を始める。
『カフェ・ド・ランブル』を1948年に開店、日本の自家焙煎珈琲店の草分。現在もお店で、日々焙煎やコーヒー研究を行っている。

関口:ええ。厨房へ入れてくれて、コーヒーを作る手もとを実際に見せてもらえるようになって。でもお店によってやり方が違うんです。それで、あれやこれやで真似して、自分でコーヒーを作って飲んでみて。まあ何とか飲めるコーヒーを作り出したわけです。

渡辺:なるほど。

関口:そのうち、当時、日本橋にあったデパート「白木屋」の7階に、年に1〜2回「コーヒーを楽しむ会」というのが会員制でできたんです。それを主催している三浦義武氏が作ったコーヒーが飲めて、会費は2円ぐらいでした。

渡辺:結構高いんですね。

関口:ええ、高いんですよ。そのコーヒーを楽しむ会に2円払って来ている連中というのは、今から考えるとみんな相当裕福というか、有名な人というか、まあ財政的にも余裕のある人たちだったんだろうと思います。学生は私くらいで、他はいい年齢の大人ばっかりでしたね。で、その2円で、コーヒーは飲み放題。飲み放題と言ったらオーバーですけど、2〜3杯は飲めたんですね。その三浦義武氏が、コーヒーなどの輸入食品を扱うスミダ物産に私を紹介してくれて。「コーヒーを研究している学生がいるから、いろいろと面倒を見てやってくれ」ってね。私が大変に熱心にいろいろやるものですから、大変に面倒を見てくれたんです。コーヒーには、学生時分にずいぶん入れ込んで、この業界で、未だにお付き合いしている会社もあるくらいですよ。

戦後は映写機で

渡辺:失礼ですが、お年はおいくつになられましたか。

関口:大正3年5月26日生まれ、数えで100、満99歳になります。

渡辺:いやあ、お元気で何よりです。ご商売はいつ頃から始められたんですか。

関口:昭和23年にコーヒー屋をスタートしました。

渡辺:その前に映写機のお仕事をされていたと伺いましたが。

関口:そうなんです。
 戦時中に遡りますが…。昭和16年の開戦の翌年17年に招集を受けました。世田谷の13部隊で、私が配属になったのは帝都防衛指令部といっていわゆる高射砲の部隊ですね。そこの指令部に兵器修理班というのがあったのですが、そこは主に高射砲を始めとしていろいろな兵器の修理や補修などを司る部隊でした。

渡辺:学生の時にエンジニアリングなどをやられていたんでしょうか。

関口:学校が早稲田の理工科でした。どちらかというと専攻は音響関係だったんですけれどね。とにかく招集を受けて最終的には防衛指令部の兵器修理班に配属になって、場所は後楽園でしたね。今、東京ドームの野球場がありますけど、ちょうどあの場所です。そこに終戦までいたんです。

渡辺:ではずっと内地だったんですね。

関口:お陰でずっと内地だったんですけど。インパール作戦というのをご存じですか。

渡辺:はい。

関口:インパール作戦でビルマからインドのインパールのほうへ入って行くのですが、インパールが落ちると、インド派遣軍というのが編成されましてね。そのインド派遣軍のメンバーの中に私の名前も入ってたんですよ。ですがインパールが落ちなかった、それでインド派遣軍は解散になり、行かずに済んだという格好ですね。

渡辺:巡り合わせですね、何が起こるかわからないですね。

関口:本当にわからないですね。

渡辺:東京大空襲のとき、後楽園のあたりはどうだったんですか。

関口:もうすごいです、雨あられのような焼夷弾で。B29は低空飛行で、米兵がこう覗いてるのが見えるくらいでしたよ。B29の焼夷弾というのはシャフトがあって、そのシャフトを中心にして、焼夷弾が何段にも束ねてあって、それが途中で全部ばらけるというようなシステムでしたね。そのシャフトがすぐそばへ、すれすれの所へ落ちてきてね。何度も命拾いしました。

渡辺:まさに紙一重ですね。

関口:ええ。そういうことがあって、後々ですけれど不時着したB29の検査に立ち会ったことがあるんです。その時、食料だとか何もかもが全部調査の対象になっていて、残骸の中には、隊員に配られていたサパーやディナーなどの梱包したお弁当があったんです。そのお弁当を広げてみると、乾パン、缶詰の肉類、他にもいろいろ。ちり紙までちゃんと入っているのには笑いましたね(笑)。タバコも必ず2本入っていました。その中にインスタントコーヒーも入っていたんです。

渡辺:コーヒー入りですか。

関口:そうです。パウダーのインスタントコーヒーが入ってたんです。私、コーヒーの研究というのは戦前の学生時分からずっとやってましたからね。興味があって、そのインスタントコーヒーを飲んでみて、驚いたんですよ。味がね、もう素晴らしくて。それまで戦争中、それはまずいコーヒーを飲んでいた時代にこんなすごいコーヒーを兵隊のお弁当の中に入れるような余裕のある国ですよ、アメリカは。こういう国と戦争をしたんじゃあ、これは敵わないなとその時に思ったんです。

渡辺:なるほど、ちょっと勝ち目がないなと。

関口:ええ。それで終戦になって、解散、招集解除となり、帰省した時分にみんな差しあたって何をやろうかということになったわけです。兵隊の仲間は技術屋ばかりでしょう。気があった連中というか、戦友の間でもごく少数の仲のいい連中で「響映社」という会社を組織して、映画関係の仕事をしようっていうことになったんです。今、ウエストのお店がある場所のすぐ脇の通りに面したところに、戦友の家があったんですよ。

渡辺:電通の斜前ぐらいですよね。

関口:そうです。映画のほうの仕事を始めたのは、その戦友の建物でした。

渡辺:では、昭和20年には映画関係の仕事を始めてたんですか。

関口:ええ。焼け残った映画館の映写機なんかは、まだ供出前でいくらか残っていたんですよ。まあ使い物にはならないものばかりでしたが、そういうものを修理して再び使えるようにしたりして修理代を稼いでいました。

渡辺:兵器修理班だから修理はお手のものなんですね。

関口:はい、お手のものなんです(笑)。それから当時は発声映画ですから、音響設備が必要で音響設備も作ったわけですよ。

渡辺:スピーカーを作るんですか。アンプとかも全部?

関口:ええ、そうです。アンプを作って、音を出す装置を作ったんです。

渡辺:戦後すぐにそういうことができる状態になっていたんですね。

関口:いや、できる状態というのか、まあどっちかというとこじつけで無理に(笑)。

渡辺:売れ行きはいかがでしたか。

関口:ああ、それはもう(笑)。みんな欲しがっているんでね。

渡辺:物がない時代ですものね。

関口:それこそ、リュックに札束を詰めて買いに来た人がいたくらい。だから商売としては大変にいい商売だったんです。

渡辺:その映画の仕事は何年ぐらいやられてたんですか。

関口:丸2年ぐらいですね。その仲間で悪いのがいてね。そっくり持ち逃げ(笑)。
 借金だけ残していなくなっちゃったんですよ。結局それで潰れてしまったんです。でも私はその仕事の傍ら写真撮影用のストロボライトという、フラッシュの研究をしてたんです。で、その仕事が割合に順調で。

渡辺:ではアンプとストロボと同時にやっていらしたんですね。

関口:ええ。でも製造するところまではとてもとても、資金の関係でできなくて。それで足踏みしていたんです。

渡辺:もったいなかったですね。

関口:ええ。今から考えれば大変もったいないことをしてたんですけれど。

渡辺:でも、それがうまくいっていたらコーヒーのほうへは行っていないですよね。

関口:そうですね(笑)。それでね、その映画の仕事をしてるときに、演劇関係の方やお客さんに、私が作ったコーヒーをサービスで出していたんです。

渡辺:なるほど、接客としてですね。

関口:そうです。まあ普通だったらお茶1杯出すところですけれど、お茶ではなく私の作ったコーヒーをその人たちに振る舞っていたんです。そしたら「こんなおいしいコーヒー、今どこでも飲めないから」と随分喜ばれたんです。それはどういうわけかというと、終戦後の日本のコーヒーのあり方というのは、米軍が使っていたアメリカンコーヒーなんですよ、いわゆるアメチャンコーヒー。

渡辺:アメチャンコーヒー(笑)。

関口:そのアメチャンコーヒーは、闇で出回っていたんですね。あっちこっちの米軍キャンプで使ってるやつが横流れで出てきたのを、みんな使っていたんです。

渡辺:アメチャンコーヒーは、おいしくなかったんですか?

関口:そうなんです。理由はこういうことなんです。アメリカは、独立戦争のきっかけを作ったボストンのティーパーティで紅茶をボイコットしたんですよね。それで紅茶の輸入が止まってしまったわけですよ。

渡辺:ボストン茶会事件というやつですね。

関口:ええ。でも、やはり長年飲んでいた紅茶を飲みたいということで、紅茶ぐらいの色に出るように浅く煎ったコーヒーがアメリカでダダーッと普及したわけなんです。

渡辺:アメチャンコーヒーは、紅茶の代わりだったんですか。だから浅いんですね(笑)。

関口:そうなんです。

関口さんが開発されたストロボが紹介された、カメラ朝日の記事。(1954年)
関口さんが開発されたストロボが紹介された、カメラ朝日の記事。(1954年)
 それで日本にもそういうコーヒーが出回っていたんです。銀座でもコーヒーを飲ませるお店が沢山あったんですけど、そこで使ってるコーヒーは、ほとんどがいわゆるアメチャンコーヒーだったんです。でも、私がお客さんに出していたコーヒーというのは、昔からのスミダ物産やその他の問屋筋の知り合いがすでにあったでしょう。みんな戦争中に輸入されたコーヒーを隠して持っていたんです。闇だけれど高い値段で仕入れて来てるから、それはもうアメチャンコーヒーと比べものにならない、おいしいコーヒーが作れたんですよね。そしたらそれを飲んでいたお客さんが「コーヒー屋をやりなさい」と。

渡辺:勧められて始めたんですか。

関口:ええ。「もうあんたの作ったコーヒー以外で飲めるコーヒーはない」とか、「絶対にナンバーワン、銀座にふさわしいコーヒー屋ができるから」と。それでやむを得ず(笑)、食いつなぎの意味で、映画関係の仕事をやってる建物の奥の7坪ぐらいの小さなスペースを借りて、そこでスタートしたわけです。