銀座人インタビュー第26回は、石草流生け花家元の奥平清鳳先生にお話を伺いました。
ホテルオークラ東京館内、お客様の前でいけ込みをされ「“この花を見たくて泊まりに来ます”そう声を掛けてくださるお客様とのコミュニケーションがとてもありがたい」。
と、お花を通じた人とひととの繋がりを楽しまれているようでした。
奥平:渡辺さんは留学してお洋服を学ばれたと伺いました。
渡辺:デザイン学校に入りました。
最初はロンドンに2年半ほどいたのですが、その後イタリアにある服飾デザインの学校に移りました。当時イギリスはものを作っていなかったので、情報が出てこない。
奥平:ものを作っていないというのはどういうことですか?背広の語源はロンドンの高級洋服店街のSavile Rowからきていると伺った事がありますが。
渡辺:意外と英国内ではものを作っておらず、当時ファッションの製造はイタリアにシフトしていました。フランス、イギリスの大きな会社から下請けとして発注が来ていたので、ものを作っていたのです。ものを作っているから情報がどんどん集まってきて、アルマーニ、ヴェルサーチ、フェレといった人達が出て来て、ものづくりとデザインが融合してドンと力が出たわけです。
イギリスもフランスもデザインだけやろうとしたのですが、ものを作っていないので情報が少ないのです。ですから、やはりイタリアが面白いなと思い、イタリアに移りました。
山本:私もミラノに行きましたが、ものすごく面白いバッグ屋さんがありました。やはりお店の上に工房があり、ものづくりが一緒になっている。
渡辺:それが今、先進国のひとつの切り口だと思います。製造と販売を同じ場所でやるというのは非常に面白いと思っています。
小売りもそうですが食べ物も、例えばセントラルキッチンといって工場のようなところで食べ物を作りますね。日本の中だけではなく世界中に工場が散り、冷凍や真空で入ってきて現場は温めるだけです。するとどの店もだんだん似てきてしまい、バリエーションがなく面白くありません。やはりお寿司屋さんなど目の前で調理しているところというのは、店で仕込みをして調理をしているから情報を持っている。そこが面白いと思います。
渡辺:先生はなぜお華を始めたのですか?
奥平:私の母と姉は古流のいけ花のお稽古をしておりました。子供の頃、母たちの持っているピンクのビロードの箱包みの中に、鋏、小刀や霧吹き、鯨尺の物差し、布巾などがきちんと納められているのを見て“宝箱みたい”と思って眺めた記憶があります。次姉は表千家茶道を6歳より始め、奥習いの「乱れ」という口伝お稽古まで。
渡辺:秘伝ですか。
奥平:そうなんです。家族で先生のところに伺っても、「乱れ」のお稽古をする時は私達も入れなかったのです。先生と姉だけが入って見せていただけません。私は姉とは5つ離れておりますが、姉のお供で護国寺や上野寛永寺のお茶会などには小さな頃から連れて行ってもらいました。その時は着物を着させてもらい、美味しいお菓子を食べられ、ちょっと改まった華やかな雰囲気は新鮮でしたが、私はお茶のお稽古は中伝をいただいてそれ以上は進みませんでした。
私は早稲田の商学部出身で当時女の子は女子大に進学する事が多かったのですが、我が家は3人姉妹の女系家族で女子校や文学部を選ぶというより、男子系の学校に行きたいと思ったのです。その頃、商学部に入学する女子は非常に少なく一学年1500人中女子は10人足らずでした。私は貿易政策論というゼミに入り先生や友人にも恵まれ、学園生活はとても楽しかったです。
渡辺:ずいぶん固いですね。
奥平:固いでしょう。私はオリンピック東京大会の年(昭和39年)に早稲田大学に入学しました。その頃の日本は高度経済成長期に突入した時代で商学部の学生の進路も大体マスコミ関係、貿易関係、広告関係などなど多岐にわたっており、又、学生運動が起こるちょっと前でしたので、皆、各々、青春時代を悩みつつも何か大らかで楽しい雰囲気が残っておりました。
私共のゼミ「貿易政策論」は真面目なゼミで一橋大学経済学部、慶應義塾大学経済学部とのインターゼミを開いたり、夏の合宿を自主的にしたり、早稲田祭に「クラブ」参加ではなく、はじめて「ゼミ」参加をするなどとても意欲的な同期の人が揃っていました。最も私は、他の学生の高邁な精神と知識についていかなければというのが精一杯の状況でした。大学三年の時、早稲田祭に「ゼミ」参加をした時、壁一面にただ発表文を書き並べるのではなく、女性や子供達が来ても、わかりやすく楽しい発表にしようということになり、テーマをガリバー旅行記を模してマンガに書いて会場を飾りました。その時、仲間の学生から「花をいけてよ」と言われ、会場にいけたのが私の花との最初の出会いとなりました。皆は多分「女の子だから花ぐらいいけられるだろう」と簡単に思ったのでしょうが、私には何の素養もなく四苦八苦しながら冷や汗ものでいけたのを覚えています。その時の不消化な気分があったのでしょうか、大学卒業後たまたまお友達と「ホテルオークラ」に食事に行く機会があり、「ホテルオークラのお花はいつもいいわね」という話になり、それで友人二人で「石草流いけ花」の門を叩いたのです。それが「石草流いけ花」岩田清道師と私の出会いになります。
渡辺:その時、石草流は何代目だったのですか?
奥平:初代で、岩田清道先生は80歳くらいでした。
最初に伺ったとき、日本橋三越で石草流いけ花の花展があるのでいらしてくださいと言われ、母と伺いました。
展覧されているお花は皆上品で素晴らしかったのですが、特に岩田先生はとても威厳があるというか、辺りをはらうような凛とした雰囲気がおありで、娘心に何か近寄り難いものを感じた事を憶えています。
渡辺:オーラみたいなものでしょうか。
奥平:ええ、何とも言うことの出来ないものでした。この先生に付いてお教えを受けたいと思いました。
渡辺:岩田先生はもともと何をされていたのですか?
奥平:岩田先生は、藤田嗣治や小山内薫の従兄弟、蘆原英了さんとは又従兄弟と伺っております。
明治時代の方なので、娘時代に色々とお稽古をなさっていらして、花道、茶道、書道などの下地はおありになったのだと思います。銀行員のご主人様の転勤で各地にいらした折、その他の先生に色々な流派をお習いになったようなのです。
渡辺:他流試合をしていたのですね。
奥平:そうですね。
西川一草亭(明治から昭和の初期にかけて活躍した文人花道家)などの影響もとても受けていらして、非常に先達の素晴らしい要素と先生の生まれながらに持っていた芸術家のセンスというものがぴったり合い、上品でたおやかな美しい線とダイナミックな動きを持った「石草流いけ花」の花風が成立したものと思われます。
池坊、草月、古流という3大流派がありますが、私どもの「石草流いけ花」は本当に小さな小さな流派でございますが、岩田清道師が作り上げたものというのは、他の人には無い豊かな感性のある花だったわけです。
渡辺:色々な流派を経験されて、引き出しが多いわけですね。
奥平:そうです。葉蘭のみを寸胴でいける生花(格花)という生け方があるのですが、岩田先生は夜分大森の老師のお宅までお稽古に伺っていたそうです。先生がお手本をいけてくださって「やってごらん」と言われるのだけれども、どういう訳か肝心のところになると手元をはっきり見せていただけない。自分のお稽古を済ませてから習いに行くわけですが、何とかしてこれを自分のものにしたいと思ってじっと食い入るように見ていたところ、その先生が最後には「あなたには根負けしたよ」と言われて教えてもらったのがこれよ、と私に教えてくださったのです。それはきれいな葉蘭の生花です。
お寿司屋さんで使うバランがありますね。それに白い縞が入った縞葉蘭でいけるのですが、私はそれに本当に魅せられてしまいました。藤田嗣治の晩年、先生も2回フランスに行かれているのですが、その縞葉蘭を100本ほど持って行かれ、15枚を寸胴に生けてさしあげて帰って来たそうです。その葉蘭は枯れて茶色になっても姿が全く乱れないまま、ずっとベッドの脇に飾ってあったということです。
奥平:「石草流いけ花」の稽古は、まずいける時、いける場所、いける目的を考え、沢山用意されている花材から選び取り合わせをする。そして花器を選んでいけるという順序をふんでいたします。ですから、ただ何となく稽古をしているというのではなく、いける人間の心の方向がその花に託され出来上がるという形がおのずと滲み出て、自分自身の向上心が養われると共に、見ておられる方にも何か静謐なものを心に残すのだと思われます。このような稽古の形を通して花材の良し悪し、器との取り合わせや是非、花材同志、花材と器、飾られる場所特に背景、私共の稽古では、金、銀、黒、水色、京壁色の五色のスライドスクリーンを動かすことにより、自分のいけた作品がどのように変化するかということも教えており、その取り合せの良し悪しなど沢山のことを学ばせていただきました。先生の魅力とこれらの要素が相俟って、これまで続けてこれたと思っております。
渡辺:アマチュアとして習い事でやるのと、これをプロとしてやっていくというのは相当な違いがありますよね。
例えば、大勢でやるものではありませんね。1人の作業も多いなど、気持ちを長期間持続させるというのは何かあるのでしょうか。
奥平:石草流いけ花のとてもユニークなところは、岩田先生は、師範を多く輩出しても独立してお教室を持つことを一切許さなかったのです。それは、藤田嗣治の「あなたの花は孤高を保て、大きな組織に属せず我が道を行け」という言葉を固く守られたが故とのことです。時代背景もあったことでしょうが花のプロを育てるというよりも、書や花の稽古を通じて、自己を磨き教養を高めることに主眼をおいて、稽古場というよりむしろ、優雅な“サロン”をおつくりになりたかったのではないかしら、と推察しております。
しかも門弟の方々の御紹介で野村証券本店の貴賓室フロアにお花をいけこみに伺ったり、ホテルオークラのいけ花を担当したりと、社会的活動もどんどん開けていき「石草流いけ花」の全盛期を迎えます。私達のときは100人ほどの社中がいてセミプロのような位置づけでした。
一番年少でいけ込みに抜擢していただいたことに対し、岩田先生に御迷惑をかけてはいけないと責任感とある種の誇りのようなものがあったのかも知れません。「ホテルオークラ」の花のいけ込みは週3回チームを組んで3人が交代でいけてまいりますが、自分が担当した花が次の人がいけ替えるまでの間、きちんと枯れずに美しい状態で保っているように責任を持たなければならないわけです。
渡辺:責任感がアマチュアとは全然違いますね。
趣味だと自分が楽しんで、向いている方向は自分だけですけれども、公の場で生けるというのは相手、鑑賞する方がいるわけじゃないですか。相手がいる花といない花というのは違うものですか?
奥平:私は全て一緒だと思っています。どなたかが見て何かを感じてくださるという事はその人の目を意識していけるのではなく、その花が何かを発するものとしていけられなければならないと思うのです。30数年前、私が最初にいけていた頃のお客様は「きれいね」「いいね」とお声をかけてくださる方がとても多かったのです。ところが最近では、そこにお客様からコミュニケーションを求めてみえるのです。例えば「きれいですね、いつも楽しみにしているんですよ」という声だけではなく、「この花は何?」という事や、今ガーデニングブームで植物に関する関心が高く、自分はこういうことをやっているのだけれども、これはどこから採ってくる花材なのか、どのように水上げをするのかなどといったコミュニケーションが多くなっています。
渡辺:それはオークラでいけていてですか?
奥平:はい、それは非常に大きな変化です。
渡辺:昔はなかったのですか?
奥平:はい。当時のホテルライフ自体がドア1枚で〈自分の個室=プライベートな空間〉を作れるという事にウエイトが置かれ、お客様も皆忙しく自分自身や仕事に向き合って、実務上の便利さが尊重され情緒的なものはまだまだクローズアップされるまでに至らなかった。それが近代社会の象徴で、また格好良く受け取られていた時代だったと思われます。今はそうではなく、コミュニケーションを求めて、癒し、憩い、温もりのある空間を味わうためにホテルオークラにお泊りになる方が多くなってきたと思うのです。
渡辺:ホテルの意味自体が変わってきている。
奥平:はい。
そこで何かをご自分達で受け取り、語りかける事によって癒される。皆さんが花をご覧になってとても癒されるとおっしゃいます。「この花を見たくて泊まりに来ます」と言ってくださるのです。
生け込みをする“凛”とした先生の姿に こうしていけ込みに命が宿るのかと、 素晴らしい緊張感を感じました。 |
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渡辺:あまたの流派がある中で、ホテルオークラでなぜ石草流が担当される事になったのでしょうか?
奥平:日本にとって戦後の一大イベントとなる東京オリンピック大会開催を前にして、昭和37年5月大倉財閥の大蔵喜世郎氏を会長に、初代社長 野田岩次郎の「日本美術の枠」を集めたホテルを作るという構想のもと、日本的感覚にあふれたホテルが完成したのが「ホテルオークラ」です。私共の岩田清道も意匠委員会に参画し、日本のいけ花をホテルにどのように生かせるか飾るかという観点から、色々なアイディアを出し、今もその様式がきちんと守られて花のいけ込みがなされております。
山本:岩田先生が。
奥平:ええ。その頃は政治家、大会社、お医者様の奥様お嬢様がキラ星の如くお弟子さんにいらして、お嫁入りの時に“石草会で修養されたお嬢様なら”という高い評価に結びついたとも聞いております。
そういうところから「石草流いけ花の岩田先生は素晴らしいわよ」という奥様方のお声はご主人様への影響力もあったのではと思います。
山本:石草流に頼んで良かったですね。
奥平:それはとてもオークラの見識があったところなのです。尚かつ花のいけ込みという仕事は、お客様の前であまり目立ってはいけない影の仕事だと捉えられていました。それは今でも変わりません。ですから他の大きなホテルは皆夜中にいけ変えます。ところがホテルオークラの花は、器を洗い、花材を準備し、花をいけ、水を注ぎ、まわりをきれいに清めるといった全てがお客様の前で展開されます。
渡辺:ライブでいけていること自体もホテルのエンターテインメントなのですね。
奥平:私が最初に「オークラの花をいけてみないか」と先生から言われたとき、「ただ花をいけるということではありません。絵になるような姿でいけてほしい」と言われました。それは、着物を着るとかそういう事ではなく、花といけ手が一体になって美しさを演出する事にこそ、真実の美があると思うのです。
山本:それは岡田先生に出会ってそう思いました。先生は花所望の時に、「いけるところから見て、いけ終わったら終わりだ」と言われた。
渡辺:それはいみじくも、最初の話に出たようにカウンターでの飲食、作っているところを見ながらそこでコミュニケーションがあって食べるのと、キッチンの中で作ってものだけが出てくる。夜中にいけ込んで朝になるとものだけあるのと、いけているプロセスを見られるというのは相当な違いですね。
奥平:そうなのです。ですから、私が立華の稽古を始めまして岡田先生から花所望が廃れてしまっているのだと聞いた時に、このオークラの花こそが現代の花所望だと思ったのです。
それで、「これなのか、だから私がやらなければいけないのは現代の花所望と、古典の室町時代の立華の花所望なんだ。これをつなげることに意味がある」と思ったのです。
山本:すると私の父はオークラで岩田先生がいけているところを見たのでしょう。それで東京画廊でやろうということになり、岩田先生をお呼びした。
奥平:そうなのです。ですから今皆様がお声をかけてくださる方は、私が花をいけているところを見て話をしてくださって、色々なご縁になっているのです。
4年程前の秋、いつものように私が桐の木をいけ込みしておりましたところ、上品な老婦人がお声をかけて下さいました。これは「どういう花材」で「どのように手配」しているか「最近はなかなかよい花材が手に入らない」などとお話を申し上げましたところ、その老婦人は長野県信濃町からいらした方で、古くからホテルオークラを愛してお泊りいただいているお客様で88歳になられるとのことでした。「このような花材ならばウチの山に沢山あるから採りにいらっしゃい」と言って下さいました。「柿なんていっぱいなっているから」と。とても親切におっしゃって下さり、私と娘が車を運転して採りに伺いました。ほんの少しいただければと思っておりましたが、自分の車では積みきれないほど頂きました。
そのご縁がきっかけで毎年全館11月〜12月初旬まで、その柿で飾らせていただきまして、それは評判になっています。
渡辺:作るプロセスが絡むと、ストーリーが生まれますね。ものだけだと、気持ちは生まれてもストーリーまでは生まれませんね。
奥平:「ああ、きれいね」と思ってもスッと通り過ぎてしまうというケースが多いのですが、そこに人がいて色々な花材が置いてあると、そこで「これは何?」「これが好き」と会話が生まれます。また、長くいらっしゃる方々のお部屋に小さなカーネーションの一輪挿しがホテルのサービスでが届けられているのですが、飽きてしまうとおっしゃるお客様が多いのです。ですから、ほんの少し落とし枝のようなものを差し上げたりするととても喜ばれます。
渡辺:花所望というのはその物語性が非常に面白いですね。
奥平:そういうことなのです。本来は、お客様と亭主との呼吸と話のかけあいによって生まれて、その空間の中でどれだけ楽しく過ごせるかということなのです。オークラの場合には期せずしてその場が与えられている。それからお客様も時代の変遷とともに少しずつ変化してきて、温もりや安らぎを求めていらっしゃるのではないかと思っています。